石土神社と石鎚神社 - どちらも同じ神さんで石鎚山は蔵王権現の化身

石土神社

[  高知県高知市神田  ]


坂本龍馬の家の守神・和霊神社のある神田地区にある、石土神社と石鎚神社のお話を・・・・・。

漢字名は違うけんど、御祭神はどちらも同じ石鎚毘古命(石土毘古命・石鎚大神)で、石鎚山を神体山とする神社ながです。

詳しくは判らんけんど、時代によって使われちょった字が変わっちょたようです・・・・。

実は坂本龍馬が出藩する際に、「吉野の桜を見に行く」と行って家を出たのは御存じじゃと思うけんど、前から「吉野」の地名の由来に興味があって調べよったら、本筋からは関係ないけんどこの神田地区の地図上に、いくつも「石土神社」と「石鎚神社」がある事に気が付いたがです。

地図は「MapFan地図」を使用

ごらんのように、地図上には5社じゃけんど、烏帽子山にゃ「石土神社」と「石土大権現社」の2社がありますき、計6社ある事になるがです。

最初は高知市神田高座地区にある、上の写真の石土神社から。

探しに行ったら、どう見てもただの民家の入口にしか見えんような場所のプランターの後ろに、「石土神社入口」と言う石碑が建っちょりました。

石土神社

入って行くと左側に民家の門は別にあり、右に細い道が民家と民家の間を通ちょりました。

石土神社

奥に行くと石段があり、上ると鳥居の扁額に「石土神社」とあった。

ただ由緒も何もなくこの時は判らんかったけんど、偶々ネット検索をしよったら、この神社の記事を書かれたブログがあり、そこに神殿内に掲示されちょると思われる「由緒書」の写真がありましたき、文章だけ起こさせてもらいました。

具柄山石土神社由緒

高知市神田具柄山は高知公園より西方約五粁(キロ)の処にあり連峯中第一の高山で眺望絶佳(ちょうぼうぜっか)太平洋浦戸湾に諸舟船の通行するをながめ、殊(こと)に山麓は大和國吉野と同名地で神仏の鎮座には好適地として斯道(しどう:この分野)の人々の間に重視せられていた。

たまたま明治25年5月伊豫國石土神社へ香美郡岸本村黒岩辨吾同貞蔵両人が参詣した時高知旭講社の中屋熊兵にあい、岸本の石土神社が大破しているので具柄山に移転したいが如何なものか話があったので早速神田の有志と協議し受諾することになったので、諸般の準備をなし明治28年7月17日現在の地に遷座したのであります。

本社は具柄山山頂上にありますが平素は神田高座に鎮座し旧暦正五九(正月・五月・九月)の大祭の他毎月旧24日に月次祭を執行しております。

尚當(なおとう)神社は慶応元年5月25日伊豫國新居郡石鎚権現の御分霊を香美郡岸本村に勧請し黒岩辨吾が私有山を寄附し講社員の協力を得て維持していたもので、石土神、大山祗神、海津見神等の御尊像並に宝物類を外に昔も今も発楊せられ例祭日には登山者が引き切らず望見する太平洋の如く無限の御霊威を今更に痛感するものであります。

【 参考・引用 】  
2014年11月 高知市神田の石土・石鎚神社|赤いクレパス君の日記


石土神社
当方も知らんかったけんど、「具柄山」とは「烏帽子山」の別名のようで、写真は石土神社の鳥居前から南に見える烏帽子山です。

気になったのは、由緒に「本社は具柄山山頂上にあり」と書かれちょりますが、始めの方で書いたように烏帽子山にゃ「石土神社」と「石土大権現社」の2社があり、文化12年(1815)に武藤到和・平道親子が私財を投げ打って編纂した『南路志』にゃ社寺として「石土権現」の名が見られますき、由緒に言う本社とは「石土神社」の方で、それ以前に烏帽子山の頂上には「石土大権現社」が鎮座しちょったがです。

武藤致和邸跡 - 豪商「美濃屋」七代目で『南路志』を編纂 2012-10-13

ですき、由緒にある明治28年7月17日に香美郡岸本村から遷座した「石土神社」は、最初の写真の「石土」社と烏帽子山の頂上に本社として祀られちゅう「石土」社は同じと言う事になるがです。

烏帽子山頂上

烏帽子山頂上にある「石土大権現社」と「石土神社」で、春野側に降りる道にゃ鎖がありました。

4社目は、神田吉野にある「石鎚神社」を。

神田吉野にある「石鎚神社」

神田吉野にある「石鎚神社」

ここも由緒は判らんけんど、『鎮守の森は今』と言う本に、「慶応元年(1865)5月25日、伊予の石鎚権現の分霊を勧請という」とある。

【 参考・引用 】  
『鎮守の森は今 ―高知県内二千二百余神社』 竹内荘市・著



そうすると、石土神社の由緒の終わりの方には「尚當(なおとう)神社は慶応元年5月25日伊豫國新居郡石鎚権現の御分霊を香美郡岸本村に勧請・・・・・」と同じ日付に勧請した事になるけんど、偶々、香美郡岸本と土佐郡神田吉野の2か所に同日勧請したと言う事ながでしょうか・・・・・???。

詳しくは判りません。

最後に、鷲尾山県立公園にある「石鎚神社」2社じゃけんど、此処も仔細は判らんがです。

鷲尾山県立公園内の「石鎚神社」近くにあった石碑

写真は、鷲尾山県立公園内の「石鎚神社」近くにあった石碑で、右は「石鎚神社道」とあり手形が烏帽子山方向の右を差し、左の石碑は「土佐石鎚教奥の院」とあり矢印が左方向を向いちょりますき、鷲尾山県立公園内の「石鎚神社」2社は、「土佐石鎚教」の方じゃと思われます。

以上、簡略してこの周辺の「石土神社」と「石鎚神社」6社を御紹介したけんど、一番古いのは烏帽子山頂上の「石土大権現社」、2番目が神田吉野にある「石鎚神社」で、それ以外は明治維新後に、石鎚講の広がりで新たに建てられた神社じゃないかと思われます。

最後に由緒にもあった「山麓は大和國吉野と同名地で神仏の鎮座には好適地として斯道の人々の間に重視せられていた」と言う部分が気になりちょっと付けたしを。

大和國吉野と言うのは、吉野の金峯山で役小角が修行中に金剛蔵王権現が示現したという伝承が残る場所で、その後、修験者によって全国に蔵王権現が勧請されて行ったがです。

実は、「石鎚山」は山そのものが「石鎚蔵王権現」ながでして、蔵王権現の正式名称は「金剛蔵王権現」の事ながですき、烏帽子山は修験者の山であったかもしれんがです・・・・・。

もしかしたら、烏帽子山頂上に「蔵王権現」を勧請したのと、当時の神田の「吉野」辺りは沢山の「ヤマザクラ」が咲いちょって、見た目に大和の吉野のように映たのかもねー。

ただ、当方も地名辞典等で「吉野」の由来を調べたけんど本当の所は、現時点では判らんかったがですが「吉野」の地名の由来の一つかと思うがです。


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