山内豊福 - 幕末、抗戦か恭順か幕府と土佐藩との狭間で悩み自害

山内豊福墓

[  高知県高知市旭天神町・御殿山  ]


昨日、御紹介の御殿山(通称・水道山)の一角に、桜の木に囲まれて悲劇の殿様・山内豊福のお墓があるがです。

山内豊福墓

山内豊福 - 土佐藩と徳川幕府との板挟みで苦悩した悲劇の殿さん 2010-09-16

幕末の政局にあって、容堂公の弟分として国事に奔走。
長州の放った一発で鳥羽・伏見の戦いが勃発。
心ならずもの倒幕の荒波にのまれた土佐本藩の度重なる本藩交流の命に対し、土佐麻布支藩藩主・山内摂津守豊福と妻典子は、徳川家に対し忠に生きるか、土佐本藩に対し孝に生きるか苦慮する中、幕府・本藩共に自重を促す中、慶応4年(1868)1月13日夜、夫婦とも自害。
二人の娘、邦姫、豊姫を残していくことの親のつらさを心情吐露した遺書は、今に伝えられ涙なくして語ること叶わず、万感胸にせまるものがある。

【 参考・引用 】  説明板より


山内豊福は、土佐新田藩の第5代藩主ですけんど、実際には領地はなく土佐藩の援助によって成り立った名目だけの藩じゃったそうです。

大政奉還後、鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍は江戸城内で和戦両派の激論が行われます。

この時、山内豊福は主戦論派に同調し幕府側に付いたがですが、主家である本家の土佐藩は新政府側に組する事になり、幕府側と主家との板挟みの中に投げ出され、悩んだ挙句、二人の娘を残して妻・典子と江戸麻布の藩邸で自害しちょります。

豊福不幸にして、始終寸志を表す能わず今日に至る
官軍に属せんと欲すといえども、朝儀の疑うところとなりて、容け入れざるもまた計るべからず
その時に臨み狼狽、途を失うは士の愧(は)じるところなり

「遺書」の一文


一度、幕府側に付いて抗戦をと唱えた以上、いまさら本家の土佐藩に従って新政府(官軍)に付くと言っても、心底信じてはくれないだろう。

その時になって、幕軍からも官軍からも疑われるのなら、武士として嘆かわしい・・・・

と言ったような意味でしょうか。

山内豊福墓

山内豊福は妻・典子と一緒に自害しちょるがですが、夫人の墓は東京にある。

土佐藩の体面だけを取り計らった結果、歴代の藩主たちが眠る山内家墓所のある筆山を遠く眺めるように、一人寂しく此処に眠っちょります。

因みに、 『鬼龍院花子の生涯』・ 『陽暉楼』・ 『天璋院篤姫』など多くの小説を世に出した、高知市出身の作家・宮尾登美子さんの短編集『菊籬(きくまがき)』と言う本の中に、今日の主人公・山内豊福の死を題材にした『自害』と言う短編が掲載されちょります。


MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment