岩神主一郎 - 土佐勤王党に134番目に加盟

(岩神主一郎墓

[ 東京都文京区大塚・護国寺 ]


天保11年(1840)に高岡郡佐川村(現・佐川町)に、土佐藩家老・深尾家家臣・古沢南洋の長男として生まれ、通称・応助、守一と言うがですが、本家の岩神氏を継ぎ岩神主一郎と称し、さらに曾祖父・井原家を再興して名乗った名が井原昂(いはら のぼる)ながです。

因みに同郷の勤王の志士・井原應輔は、古沢南洋に教えを受けちょります。

井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟 2013-09-30

武市瑞山に剣術を学んじょり、文久元年(1861)土佐勤王党が結党されると134番目に加盟し、翌文久2年(1862)京に上り平井修二郎の宿に逗留し諸藩の志士たちと交流し、国事に奔走しちょります。

平井収二郎辞世の句碑 - 龍馬、加尾への気遣いも 2010-05-17

しかし、文久3年(1863)土佐勤王党の獄が始まると、勤王に従事しちょったため父・南洋、弟・古沢滋と共に投獄され、慶応3年末(1867)に釈放され、慶応4年(1868)戊辰の役では、深尾重愛に従い伊予松山藩征討に従軍しちょります。

維新後は、土佐藩兵の教頭などを務め、明治3年(1870)にゃ、東京に出て一等士官となり、大阪鎮台出仕や司法省検事局、元老院権少書記官、明治9年(1876)に高知県権参事などを歴任して翌年辞職しちょります。

その後は、自由民権運動に身を置き、明治10年(1877)立志社の獄に連座し、禁獄10年の刑を受けて秋田監獄に収監され、た。明治16年(1883)に特赦によって出獄しちょります。

立志社の獄とは、1877年の西南戦争に乗じて立志社の林有造や大江卓が元老院議官陸奥宗光らと共謀して高知県にて挙兵を企てたとされる事件。
同年8月に事件が発覚して林をはじめとする首謀者や片岡健吉ら高知在住の幹部が逮捕され、翌年8月に大審院において有罪判決が下った。

この事件については立志社の指導者である板垣退助・後藤象二郎らは無関係で片岡も林ら過激な首謀者の巻き添えとなったとする見解が『自由党史』以来の通説であるが、これに対して同書は板垣監修の書であり、仮に板垣自身が関与したとしてもその事実を記載をするとは考えにくいとする史料批判や、林や大江の回想録が板垣と協議した事実を記していること、後藤象二郎と陸奥宗光が戦争中に板垣あるいは木戸孝允を司令官とした旧土佐藩士を中心とした西郷隆盛討伐の義勇軍を持ちかけて一旦は明治政府の方針とされたこと(4月15日に中止)から、これを挙兵の大義名分作りのための計画とみなして板垣や後藤も挙兵計画に関与していたとする反論もある。

いずれにしても、自由民権派による「第2の西南戦争」になる事を危惧した明治政府側は板垣・後藤に対する責任追及を避けて、「一部過激派」の暴走と規定することで事態の収拾を図ったとは言える。

【 参考・引用 】   立志社の獄 - Wikipedia:


片岡健吉生誕地 - 立志社初代社長
大江 卓 - 賤称廃止や娼妓解放に尽力した反骨の土佐人 2013-03-05
立志社跡 - 自由民権運動 2009-03-20

その後、再び官途に就き、群馬県吾妻郡長、同北甘楽郡長、千葉県香取郡長、沖縄県参事官、同書記官、山梨県書記官、熊本県書記官、新潟県書記官、三重県書記官、広島県書記官などを歴任し、明治35年(1902)島根県知事に就任し明治37年(1904)に知事を休職となっちょります。

大正12年(1923)84歳でみてちょり、東京・護国寺にある墓は岩神・井原両家累代之墓となっちょります。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 


(岩神主一郎墓

因みに、お墓の左側に、墓碑があるがですが篆額は「田中光顕」の文字ながです。

(岩神主一郎墓

篆額(てんがく)とは、漢字の書体の一種「篆字」で書かれた石碑の題字の事。
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment