赤土峠 - 佐川勤王五士達の「脱藩志士集合之地」碑

赤土峠 - 脱藩志士集合之地

[ 高知県高岡郡佐川町と高知県高岡郡越知町の間にある峠  ]


佐川町の四国電力佐川発電所傍にある川内ヶ谷バス停傍に、この「脱藩志士集合之地」碑が建っちょります。

赤土峠 - 脱藩志士集合之地

国道33号線の三叉路を右折して写真の碑の前の旧道を約1.5Km程上って行くと、赤土峠があるがです。

赤土峠 - 脱藩志士集合之地

旧道は、比較的傾斜のなだらかな坂道が続いちょり、しばらく上って行くと右側に四国のみち「越知町街-佐川町街」の標識が見えてきます。

此処が峠じゃろうか、ちょうど赤土トンネルの真上辺りじゃと思われます。

赤土峠 - 脱藩志士集合之地

その道路左側に、「脱藩志士集合之地」碑は建っちょります。

赤土峠 - 脱藩志士集合之地


赤土峠 - 脱藩志士集合之地

碑の題字上にゃ、田中光顕の歌が刻まれちょります。

赤土峠 - 脱藩志士集合之地

脱藩志士集合の地

元治元年(1864)八月十四日、死を堵した佐川勤王五士が脱藩のため集合した場所である。
昭和14年(1939)この地に記念碑が建てられ、題字「脱藩志士集合之地」は、元・佐川領主十三代男爵深尾隆太郎の筆である。

題字の上に
真心のあかつち坂にまちあわせ いきてかえらぬ誓いなしてき
の青山・田中光顕伯の詠吟は、士々の心中をあますことなくつたえている。

【 参考・引用 】  「説明板」より


その佐川勤王五士とは、池 大六(山中安敬)・井原応輔・那須守馬(片岡利和)・橋本鉄猪(大橋慎)・浜田辰弥(田中光顕)の事ながです。

彼らは、京で起こった「禁門の変」の知らせを聞いて元治元年(1864)八月十四日脱藩を決意してこの地に集合して、越知に抜けて仁淀川を舟で下り、黒森越えをして伊予の大洲に至り、長州の三田尻へと脱藩に成功しちょります。

池 大六  

文政10年(1827)深尾家臣・池斧太郎の子として生まれ、名を敬造と言い、後に山中安敬と名乗っちょります。
深尾家の足軽下横目を務め、土佐勤王党にも加盟しちょりますが、血盟名簿にゃ名前は残っちょりません。
文久3年(1863)に土佐勤王党への弾圧が始ると、土佐勤王党に好意的じゃった佐川領主・深尾鼎も奉行職を解かれるようになり、自領の佐川の勤皇派志士も親類預等の謹慎処分を下され、その監視役を務めちょりますが、謹慎処分を受けた井原応輔・那須守馬(片岡利和)・橋本鉄猪(大橋慎)・浜田辰弥(田中光顕)らに影響されたがでしょう、彼も脱藩の決意をするがです。
脱藩後は国事に奔走し、高野山挙兵にも参加し活躍しちょり、維新後は宮内省に出仕し、明治12年(1879)52歳で没しちょります。

井原応輔 は脱藩後国事に奔走するも、慶応元年(1865)2月尊王派の同志を募るために作州路を遊説中に岡山県美作市土居で大勢の土井村民のリンチにあい惨殺されちょります。

井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟 2013-09-30

那須守馬(片岡利和)

那須盛馬 - 土佐勤王党に141番目に加盟 2012-11-26

橋本鉄猪(大橋慎)

橋本鉄猪は天保6年(1835)深尾家家臣・橋本喜問太の長男として生まれ、名を有蔵、後に大橋慎(慎三とも)と名乗っちょります。
土佐勤王党にゃ139番目に加盟しちょります。
土佐勤王党への弾圧により、彼も勤事控自宅謹慎の処分をうけちょりますが、脱藩へと決意するがです。
一端長州に脱藩した後、大坂城を焼き討ち計画に加わる為に大坂にでて潜伏するけんど、新撰組の知るところとなり、元治2年(1865)正月に新撰組の急襲を受け、大和国十津川郷に逃れちょります。 
その後、中岡慎太郎の組織した陸援隊の副長を務め、鳥羽伏見の戦いが始まると幕府軍との戦いに活躍しちょります。
維新後は新政府に出仕しちょりますが、明治5年(1872)享年38歳と言う短い生涯を閉じちょります。

浜田辰弥(田中光顕)

田中光顕墓 - 中岡慎太郎亡き後の陸援隊を率いた一人 2010-11-24

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 


赤土峠 - 脱藩志士集合之地

碑のある峠を少し進むと開け、前方に佐川と越知の境の山々が連なっちょります。

この道は、脱藩の道と言うより 、彼らには、新たなる夜明けに続く希望の道じゃったがです。


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