細川頼益 - 細川氏一族遠州家四代目当主にして土佐守護代家始祖

細川頼益墓

[  高知県南国市田村・細勝寺  ]


細川頼益は、室町幕府・細川頼之の一族じゃった人で、土佐守護代として香美郡田村荘(現・南国市)へ派遣され、田村の地を守護所と定めたと言うように記述しちょる書物もありますが、詳しくは省略するけんど『高知県人名事典』には、細川頼益の土佐守護職としての在職期間を確定することは困難であるとも記述されちょります。

田村城跡 - 土佐守護・細川氏居城 2010-09-22

細川頼益 - 満益 - 持益 ー 勝益

ただ細川満益から勝益までの三代が土佐守護代として記録に残っちゅうことから、細川頼益が土佐守護代家の始祖であることには変わりはないともある。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 


文亀元年(1501)に、細川勝益が田村城南西(現代の高知龍馬空港の滑走路近く)に、初代・細川頼益追善のために桂昌寺を建立しちょりますが、徳川の時代になって第5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院と字が同じじゃとして、細勝寺と改称したようながです。

この墓石は、昭和29年に細川氏の縁者によって再建されちょります。

細川氏 遠州家

代々の当主が遠江守を称したことから、この名が定着した。
土佐守護代家ともいう。
土佐守護は細川家の嫡流である京兆家が代々つとめたが、管領でもあり京都住が常であったことから、庶流であるこの細川家が実際に土佐に在国し守護代を代々つとめた。
・・・・・
その曾孫・勝益は応仁の乱に際して東軍大将を務める細川勝元の支援のために上京、その跡を継いでいた政益・国益も永正4年(1507)に細川政元(勝元の子)が暗殺される(永正の錯乱)と上京し、やがて土佐は守護代不在の地となった。

【 参考・引用 】  細川氏 - Wikipedia:




MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment