北川貞彦と弘瀬重正 - 玉垣に残る二人の自由民権運動家



[  高知県高知市天神町・潮江天満宮  ]



潮江天満宮の玉垣に残る、左が北川貞彦、右が弘瀬重正の名前ながです。

北川貞彦は安政3年(1856)に四人扶持切符15石の中級土佐藩士の家に生れ、民権家・発陽社社長を務めちょります。

発陽社ちゅのは、自由民権運動の中心じゃった「立志社」の傘下に属しちょった民権結社で、潮江にあったがです。

立志社跡 - 自由民権運動 2009-03-20

立志社の植木枝盛が起草した日本国国憲案は、過激すぎると判断した幹部達が改稿を求め、北川貞彦の手によって「日本憲法見込案」が出来ちょります。

自由は土佐の山間より出づ - 植木枝盛生誕地 2008-12-20

この人は、代言人(弁護士)もしよったようで、財界のナポレオンと言われた土佐出身の財界人・金子直吉と2度裁判を行い、2度とも負けたと言う逸話があるそうです。

③高知市農人町(傍士質店)

土佐藩の番所や船着場があった場所。
金子直吉が鈴木商店に入店する前、この地の傍士質店で丁稚奉公をしていた時に、質草の本で経済、政治、歴史、化学など多くの書物を読みあさり膨大な知識を身につける。
質屋の主人は直吉に非凡な才能があると見抜き、後に砂糖屋へ鞍替えした際に、神戸商店行きを進めた。

直吉はこの質草の本で読みあさり勉強したことを「質屋大学」と呼び、ありとあらゆる書物から膨大な知識を得ていた。
この知識を実戦に生かした逸話がある。
それは、この傍士質店があることから裁判沙汰に巻き込まれた。
相手側には北川貞彦という一流弁護士がついていたが、直吉は恐れず立ち向かい、代理人として裁判に出てしまう。
結果はなんと和解と民事訴訟の2度も勝ってしまう結果となり周りを驚かせた。

【参考・引用 】  
高知|地域特集|鈴木商店のあゆみ|鈴木商店記念館:


金子直吉 - 私利私欲に走らず清貧を貫いた財界のナポレオン 2014-05-09

右の弘瀬重正は万延元年(1860)に同じく潮江村の藩の下士の家に生れ、民権家、地方政治家、事業家。

発陽社の社員じゃったようで土佐の自由民権運動の有力な活動家の一人ながです。

明治31年(1898)から39年(1906)まで、潮江村の村長をを務めちょります。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年) 




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