花熊城址 - 城主・横山友隆は長宗我部国親に敗れ長宗我部に仕える

花熊城址

[ 高知県高知市介良 ]


高知市の東、介良川沿いの竹藪に覆われたこんもりとした山と言うか丘のような場所が、花熊城址と言われちょる所ながです。

『高知県の地名』じゃ、介良城址とあり、鉢伏山の北西麓、小高い丘の上にあった平山城で、花熊城、横山城と呼ばれ、土佐・横山氏の本城とある。

因みに、背後の標高170m程の山が介良三山の一つで通称・介良富士と呼ばれちゅう小富士山じゃけんど、此方を介良城址と紹介しちょるのもあるがですが、『土佐国古城略史・全』には別途・介良城の記述はないのと、「介良 史跡・自然めぐりコース」と言う地区の案内板には横山城とあるものの別途・介良城の記述はない。

此の横山氏については、『高知県の地名』に、谷秦山の『土佐遺語』じゃ敏達天皇の末裔・小野氏の子孫で、時季が武蔵国横山(現・東京都八王子市付近)に住して横山氏を称し、その11代目の時季が土佐・横山氏の祖とある。

この小野時季は、小野篁より7代目の後裔です。

小野 篁(おの の たかむら) 延暦21年(802) - 仁寿2年(853)。

平安時代前期の公卿・文人、参議・小野岑守の長男。

官位は従三位・参議。

異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。

小倉百人一首では参議篁。

【 参考・引用 】   小野篁 - Wikipedia


ちょっと調べてみたら、この武蔵国の横山氏と言うのは、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしよった同族的武士団・武蔵七党の一つで武蔵七党系図の筆頭ながです。

その横山氏に付いて『土佐国古城略史・全』にゃ下記のように記されちょります。

建武三年八月横山左近允朝泰将軍頼家(鎌倉幕府第2代将軍)の命を奉じ、土佐国介良に来る、希義(源義朝の五男で、源頼朝の同母弟)の既に死せるを聞き、髪を剃りて、僧となり、澄尊と称す、歳十七、澄尊公文但馬守阿闍梨賢覺を生む・・・・・(6代後)野次郎時義に至て 始て介良庄を領す・・・・・(9代後)道範九郎兵衛時継を生む 之を介良の城主とする・・・・・


築城年代は定かじゃないがですが、横山友隆(道範九郎兵衛時継)の時代にながでしょうか。

そんで、この横山友隆が、長宗我部国親と争う事になるがです。

天文16年(1547)頃、長宗我部国親は一条氏の支城である大津城を攻略し天竺氏を滅ぼし、この介良城をも攻め横山氏は長宗我部軍の軍門に降るがです。

因みに、長宗我部国親は更に下田の下田城を落とし、細川定輔(十市・細川氏)を屈服させ次男・池頼定も懐柔させ、長岡郡南部を制圧し、浦戸湾を挟んで宿敵・本山氏の浦戸城と対峙し、やがては本山氏との戦いへと進んで行く足掛りになるがです。

長宗我部軍に敗れた横山友隆は、国親・元親・盛親に外様系宿老として仕え、天正年間に浦戸城番や検地役を務めちょります。

関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が敗れた後の慶長20年(1615)大阪夏の陣に出陣し、討死にしたそうです。

最後に『土佐国古城略史・全』から。

明治27年(1894)1月5日花熊城に陪遊(付き従って遊びに行く)する。

城蹟狭少なり、今闢て(今はひらけて)田畑と爲し(田畑になって)、舊規(きゅうき:昔からの規則。古い規定。の意味)一(ひとつ)も見る所なし。

・・・・・石を疊んで其上に少祠を建つ・・・・・


【 参考・引用 】 
『土佐国古城略史・全』 宮地森城・著
『日本歴史地名大系40 高知県の地名』 平凡社
『高知県人名事典』 高知新聞社




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