猿丸太夫伝説の墓 - 伝説では弓削道鏡の弟・弓削浄人とされる

猿丸峠

[ 高知県高岡郡佐川町・猿丸峠 ]


佐川の町内から、国道494号佐川~吾桑バイパスを斗賀野に抜ける途中に猿丸峠と言う所があるがですが、そこにこの「猿丸太夫伝説の墓」と言う看板が建っちょります。

猿丸峠

此処から国道494号と分岐する坂道を上って行くと、「東光寺跡」と言う碑があるがですが、明治4年廃寺と刻まれちょりますき、ここも明治の廃仏毀釈によって取り壊されたがですねー。

この上に「猿丸太夫伝説の墓」があるけんど、明治維新までは東光寺の寺墓地の一角じゃったがでしょうか・・・・・。

猿丸峠

佐川町指定文化財 猿丸太夫伝説の墓

元従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流され、ここ猿丸山に居住したといわれている。

佐川における猿丸太夫(弓削浄人)の墓の伝説は、彼の流罪の年、宝亀元年(770)から数えて千二百年余りを経ていて奈良朝時代から夢の跡が長く伝わっているのは他にない。

平成四年三月一日建立
高知県文化財保存事業
佐川町教育委員会


猿丸太夫伝説の墓

少し上ると、木々の生い茂った斜面に「猿丸太夫伝説の墓」と言う、五輪塔が建っちょりました。

猿丸太夫伝説の墓

説明板にゃ、「猿丸太夫伝説の墓」の主が、兄は弓削道鏡と書かれちょりますき、簡単に日本史を・・・・。

弓削道鏡と言うたら、物部氏の一族・の弓削氏の出で僧侶の身でありながら称徳天皇(女帝)に寵愛され位人臣を極め(臣下として最高の地位につき事)、「宇佐八幡宮神託事件」で知られちゅう皇位さえうかがったとも言われる悪人とされちょります。

宇佐八幡宮神託事件

奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件を言う。

神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宣阿曾麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。
称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。

清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。
宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女に託宣、宣命を訊くことを拒む。
清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。
与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。
大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。

同年10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。

【 参考・引用 】  宇佐八幡宮神託事件 - Wikipedia:


この事件後、悪人と言われるわりには弓削道鏡自身は長年の功労により刑罰を科されることは無かったそうで、神護景雲4年に下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられ、赴任地の下野国で没したと言う。

しかし親族(弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)4名は、捕えられ土佐に配流されちょります。

と言うのも、先に記した「宇佐八幡宮神託事件」の首謀者が兄の弓削道鏡本人じゃのうて、弟の弓削浄人とあるからながです。


【 参考・引用 】  弓削浄人 - Wikipedia:


この弓削浄人の土佐への流されたと言う記述が『続日本紀』にある。

『続日本紀 八月辛亥ノ条』 
流 道鏡弟弓削浄人 浄人男広方・広田・広津於土左国

『続日本紀 天応元年6月乙巳ノ条』 
勅 河内国・・・・・弓削浄人・・・・・去宝亀元年配土左国宣宥其罪放還本郷 但不得入京


ですき、土佐の何処に流されたかは判らんけんど、土佐に来た事は確かで、天応元年(781)に赦免され河内国に戻る事は許されたけんど、都(京)には入ることは許さんと言う事ながです。

一般にゃ、その後の消息は不明になっちょりますが、佐川じゃ此の地に没した事になって伝承されちょるがです。

そこで説明板にある「弓削浄人=猿丸太夫」に関して・・・・・。

猿丸太夫と言うたら、平安時代の和歌の名人36歌仙の一人で、『古今和歌集』や『小倉百人一首』に収められ和歌は、有名な歌ながです。

奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷
おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき


けんど、この「猿丸太夫」と言う人も、生没も判らんし、実在のしたか否かもハッキリせん人物ながでして、そのため、色んな説があるけんど、「猿丸太夫=柿本人麻呂」も、その一つがながです。

猿丸大夫=柿本人麻呂説

謎の多いこの二人について、哲学者の梅原猛が『水底の歌-柿本人麻呂論』において同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる。

梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田國男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が『古今和歌集』の真名序では「柿本大夫」と記されている点も取り上げ、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である。

しかしながらこの説が主張するように、政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い。

【 参考・引用 】  猿丸大夫 - Wikipedia:


柿本人麻呂は、斉明天皇6年(660)頃 - 養老4年(720)頃の飛鳥時代の歌人じゃとされちょりますが、この人も謎の多い人物なが。

【 参考・引用 】  柿本人麻呂 - Wikipedia:


まあ、土佐では、「猿丸太夫伝説の墓」が、伝説とは言え猿丸太夫=弓削浄人となった根拠は判らんけんど、何時の時代からか峠の地名にも「猿丸」の名が付いちょります。

それにしても、猿丸太夫伝説の墓が、猿丸太夫=弓削浄人、もしかしたら=柿本人麻呂とまで行ったら、これも古代史の「謎」でもあり、歴史の「浪漫」ですねー。


MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment