秋澤貞之 - 土佐勤王党に87番目に加盟

秋澤貞之墓"/

[ 高知県高知市天神町・水源地山 ]



生年は定かじゃないけんど、墓石に没年明治12年、『土佐の墓』に41歳(享年)とありますき、天保10年(1839)生れじゃと思われます。

清秋貞之は、土佐郡柄田村(現・高知市)の白札郷士・秋沢専三郎の長男として生まれ、貞道、通称・清吉と言うがです。

奥宮慥斎に就いて尊王の大義を学び、武道にも志し、文久2年(1862)に土佐勤王党に87番目に加盟し、京に上り諸有志の間を奔走する等して国事に尽くしちょります。

奥宮慥斎 - 門人たちに尊王の大義を鼓吹する 2012-02-29

鳥羽伏見の戦いが起こるや帰国し、藩を説いて迅衝隊(戊辰戦争の際の土佐藩主力部隊)を組織し、砲隊を組織し丸亀城等を攻略。

砲術を、徳弘董斎に師事しちょったようです。

徳弘董斎邸跡 - 龍馬の高嶋流砲術の師匠 2009-11-23

慶応4年(1868)東山道先鋒に従って小目付となって甲府城の撤収に立会い、甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(新選組が旧幕府より甲州鎮撫を命ぜられた後の名称)を破り、小軍監として壬生・宇都宮と各地を転戦し軍功を挙げながら、今市に至る。

その後、会津若松城の開城に伴い凱旋帰国しちょります。

明治4年(1871)御親兵(明治初期の明治政府直属の軍隊で、天皇及び御所の護衛を目的とする。)となり近衛隊大尉となるがですが、明治6年(1873)外出しちょって皇居に居らんかった時に皇居の炎上が起こり、切腹を覚悟したがですが全藩上官達に命を救われちょりますが、責任感が強く実直な人だったようで自ら責を取って近衛隊大尉の職を辞職しちょります。

明治10年(1877)西郷隆盛が挙兵した西南の役が起こると、天皇の詔命(天皇の命令)で西郷を京都に呼び廟堂大臣((主に新政府の内閣)と議論をして、まずは正否を正すべきじゃないかと建白書を提出するが行われんかったようで、これが原因で官を辞したようながです。

その後は、板垣退助の後押しで、州議会議員にも選出されちょりますが、明治12年(1879)高岡郡塚地村(現・土佐市)で虎疫(コレラ)にかかり、病死しちょります。

【 参考・引用 】 
『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年)
『続 土佐の偉人傳』 寺石正路・著 (大正12年)
『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会 (昭和62年)




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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