天忍穂別神社 - 饒速日命が石舟に乗り飛来したと伝わる「石舟さま」

天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

[ 高知県香南市香我美町山川字スミガサコ  ]


香南市香我美町の香宗川上流に、この「天忍穂別神社(あめのおしほわけじんじゃ)」はあるがです。

当ブログでも、「石船神社」とか「石舟神社」と書いちょるのが、この「天忍穂別神社」ながですが、地元じゃ「石舟様」と言った方が通りはエエですき。

天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

郡頭神社でも書いたけんど、 伝承じゃ祭神である父の天忍穂耳尊を追って、子の饒速日尊が石舟で飛んで来たと伝わる神社ながです。

郡頭神社 - 延喜式神明帳の「古保里都神社」名の意味するものは? 2014-01-24

天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

石舟さま由来

昔天照大神のお孫様で饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という神様が、石舟に乗り大空を天かり給い、山川のスミガサコの山の峰にお着きになりました。

饒速日命は、まず、河内の国のある山にお降りになり、それから大和の国の桃尾山の麓におとどまりになって、やがて父神の天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)を慕って、土佐の国へお着きになりました。

土佐へ初めてお降りになったのは、物部川下流の上岡山(野市)で、それから富家村に入られ西川村・長谷の小村・峠の船戸・末延の水船・山川の舟谷を経て、今のスミガサコのお社にお着きになったといいます。

舞川の地石は、この神様がお休みになった時舞楽をなされた跡で、長谷の小村には烏帽子(えぼし)をかけられたという烏帽子岩があり、今のお社の南の谷はお冠を取られた所でカットリといいます。

北の谷は杖谷といい、命(ミコト)がホコを置かれた所。

その側の首珠が佐古は、お首飾を置かれた所といわれます。

饒速日命がお乗りになった石舟は、境内の裏手にあり、巨大な自然石の舟型をしております。

又付近には、船乗り達が献納した小さな石舟がどっさり置かれています。

この小さな多くさんの石舟たちが物語る様に、航海の安全を守る舟神様であると共に疱瘡(ほうそう)様の神様としても知られております。

(杜井和雄「土佐伝説」より)

香我美町教育委員会


天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

長い石段が上に続いちょります。

天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

蛙股の部分に、柏紋が彫られちょりますが、山内家とは無関係。

天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

これは、「丸に瘠三柏」と言う神紋の柏紋ながです。

神紋には、各神社にゆかりのある公家・武家の家紋が用いられる他、唐などにおける図案や由緒縁起にまつわる図案など独自の意匠が用いられていることも多い。

神職の系統の家系では、神紋が家紋代わりとなっている(花菱紋、柏紋など)。



以前、御紹介しちゅう剱尾神社の神紋も同じ「丸に瘠三柏」の柏紋じゃった。

剱尾神社 - 創建は500年以上も古く祭神はスサノウ(説) 2011-06-23

天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

創祀年代は不詳。

天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

上の写真の「天忍穂別神社」の説明板の後ろの方に「・・・・・石船神社と呼ばれたが 谷秦山の調査(1705)再興後、天忍穂別神社と称している」とある。

これは、谷秦山が延喜式に記載のある土佐21座を調べた「土佐国式社考」の事ながでして、この調査以降、「石船神社」から「天忍穂別神社」とされちょるそうなが。

これに関して『長宗我部地検帳』にゃ「天忍穂別神社」の名が無いと言う興味深い記事があったき、参考に引用させていただきます。

天忍穂別神社

 『式社考』の時点では、天忍穂別神社に比定される神社は存在しなかったようで、大忍庄山川村にある、石舟社がそれではないかとしている。

それについて『式社考』は、はじめに旧事記にある、天忍穂別尊の御子饒速日尊が、天磐舟に乗って日本ノ国に天降ったという記事を引用し、山川村の古老が、石舟明神は石舟に乗って天降ったと言い伝えているので、その神は饒速日尊であろうという。

それはこの山川村は物部姓の伝領地であるからで、この社の棟札の正和四年(一三一五)のものに物部末近、天正六年(一五七八)のものに物部末延、元亨元年(一三二一)の政府の下文に物部末正大夫等の名が見える。

よってこの石舟社は、物部氏の祖神饒速日命を祀る社であることは明らかであるというのである。

そして神体として玉石一枚と霊鏡一面があるのは、父神天忍穂別尊を併せ祀ったものであろうとし、「芳本郡天忍穂別神社、案検部内未得的名。今以旧記及姓系推之知石舟社近之矣。且其廰下文鄭重如此、恐非式社不易當也。謹録以侯後人訂正焉。」と、結んでいる。

この石舟社が、天忍穂別神社ではなかろうかというのである。

これを『(長宗我部)地検帳』にみると、天忍穂別神社は現われず、石舟宮だけであるのは、この推定の裏付になろう。

『地検帳』によると、大忍庄山川村に、「御石舟宮床 一々拾五代 社殿一間四方横殿 二間 山川ノ村 御宮床五間 」とあり、同村と末延村に神領等五反二代、他に「宮ヤシキ二十代」が宛てられている。

今かりに天忍穂別神社が、耕地の近くにないので、『地検帳』に現われないとしても、御子神の石舟社に神領が宛てられているのに、親神の神社にそれがない筈はないと考えられる。

とすれば、天忍穂別神社は存在しないことになる。

『南路志闔国之部』(以下単に『南路志』という)には、「東川村の項に石船大明神はあるが、天忍穂別神社はなく、当社(石船大明神)を天忍穂別神社と唱事、往古ハ石舟大明神また弁財天とも唱候処宝永二年谷丹三郎殿御改之上向後天忍穂神社と唱申様被仰付也 」とある。

これは『式社考』に「俟後人訂正」と言っているのとは違っているが、石舟社の天正六年(一五七八)二月二日付の棟札の裏にも、「宝永二乙酉天忍穂別神社谷丹三郎改由(一七〇五)」とある。

『式社考』には遠慮して書いてあるが、実際には改称の指導したことになる。

『南路志』もそれを認めていることになる。

大明神とあるのは、どういうわけであろうか。

それはとにかく、宝永以後、天忍穂別神社と改称されたので、当然主神は天忍穂別尊で、相殿が饒速日命といれかわったことになる。

しかしこれだけでは解決にならない。

それは延喜式に、なぜ天忍穂別神社とあって、石舟社と記されてないのかということである。

或いは中央では石舟社を天忍穂別神社と考えていたのであろうか。

ならば社名と祭神が釣り合わないことになる。

まだ問題は残るわけである。

なお、『(長宗我部)地検帳』には、神田が五反二代、宮ヤシキとして二十代があるが、神事などについては記されていない

【 参考・引用 】  『長宗我部地検帳の神々』  廣江 清・著 (昭和47年)


と言うように、谷秦山の調査した以降、名が変わった神社と言う訳で、これも以前、御紹介しちゅう「伊都多神社」の本社「伊豆田神社」も似たような・・・・。

伊都多神社 - 御祭神は三嶋神が龍神から救った三姉妹の一人か 2014-12-08

まあ、これ以上は素人の当方にゃ判り兼ねますが、 『皆山集』にゃ下記のような不思議な現象があった事も記された由緒ある神さんにゃ変わりないがです。

一、 神社ノ空ニオイテ不時太鼓ナリ、或ハ御内陣ノ金幣ナリ動ノ事。

一、 天明二年九月十九日不浄ノ人参詣シ、挙頭ノ折柄、下庭落、即死、其跡神社数日動ナルノ事。

一、 天気閑静ナル時深更ニ及、境内斗リ大風、社棟ニ吹付ク事。

一、 去春五更ノ頃、神拝ノ節一ノ神門ニ至ル時、祈声高ス、二ノ神門ニ至レハ消声ス、但百人斗ノ声ナリ。

一、 浪人者、通夜トナヅケテ殿内ニ至ル時、忽神社震動シ神門ノ外ニ転臥ノ事。

一、 去冬、不浄人常夜有レ之所、拝殿エ大ナル牛ニ似タル者出タ事。

【 参考・引用 】  『皆山集』 の「神社不思儀之事」より



天忍穂別神社(石船神社・石舟神社)

神社は、此処より約700m程行った、山の上ですき・・・・・。

神奈地祇神社 - 物部氏との関わり 2011-03-25


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1 Comments

鷹野 冨士丸  

皆 様 新年おめでとうございます・・

輝かしい新年を迎え益々の
ご繁栄をお祈り申し上げます
本年も変わらぬご好誼のほどお願い申し上げます

 平成二十七年 元旦
・・

        鷹野 冨士丸

・・

2015/01/01 (Thu) 19:51 | EDIT | REPLY |   

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