紀夏井邸跡 - 応天門の変(866)に連坐して土佐に配流された
[ 高知県香南市野市町母代寺 ]
県外で話をしよったら、たまに「土佐は島流しの流人の地でしょう」と言われる事があるけんど、「確かに流人の地には変わりないけんど、別に土佐だけではのうて天皇の居った畿内の土地以外は流人の地だった。」と答えるがです。
「土佐は島流し・流人の国」と言って、恰も殺人犯や強盗犯の類の人々の流された場所のように思われちょるけんど、流罪になった人々は皆、朝廷内の権力闘争で敗れたり、冤罪によって流された人々の地ながです。
大化元年(645)の「乙巳の変」により蘇我氏を排除し、即位した孝徳天皇が翌大化2年(646)nni正月1日に政治の方針を示した。
これが改新の詔である。
詔は大きく4か条の主文からなり、各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。
【 参考・引用 】 改新の詔 - Wikipedia
権力者側から見て、疎ましく目障りな存在の人々を罪の重軽の度合いで選別し、軽い罪の者は畿内に近い場所、重罪の者は遠くの地に遠ざけたに過ぎんが・・・・・。
この紀夏井も、その一人ながです。
紀 夏井(き の なつい、生没年未詳)は平安時代初期の貴族、政治家。
大納言・紀古佐美の曾孫。
承和年間の初め、隷書を得意としていたことから、授文堂で書を学ぶよう命ぜられ小野篁に師事する。
のち、文徳天皇に見いだされ、嘉祥3年(850年)少内記に抜擢される。
六位蔵人・大内記を経て、斉衡2年(855年)従五位下・右少弁に叙任される。
この頃、忠実に仕えながらも清貧で家も持っていなかった夏井を憐れんで、天皇は1軒の家を夏井に与えたという。
斉衡4年(857年)には従五位上・右中弁と、天皇の側近として順調に昇進する。
夏井は天皇の意志を忠直にしっかり把握する一方で、時には正し諫めることもあった。
加えて、聡明鋭敏で、物事を処理するにあたって滞ることがなかった。
夏井の働きぶりに天皇の信頼は篤く、重用されて内外の重要な政務を助けたという。
天安2年(858年)文徳天皇が崩御し清和天皇が即位すると、讃岐守に転任し地方官として赴任する。
任国では善政を施し、官人や民は満足し、治安も行き届いた状態であった。
4年間の任期を終えるも、百姓等の懇望により、さらに2年間讃岐守の任に留まる。
人々は富み栄え倉庫への食料の備蓄も十分になったため、任国内に新たに40棟の大蔵を建て、籾を納めて万一のための備えとした。
貞観7年(865年)には肥後守に任じ、ここでも領民に慕われた。
しかし、貞観8年(866年)に応天門の変が起こり、異母弟の紀豊城が共謀者の一人として逮捕されると、夏井もこれに連座、肥後守の官職を解かれて土佐国への流罪となった。
土佐国へ護送中、肥後国の百姓等は父母を失うがごとく嘆いて夏井の肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国の百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで夏井に付き随い別れを惜しんだという。
夏井自身も、自らが変に全く関与していないにもかかわらず連座し、首謀者とされた伴善男と同じ流罪となったことを密かに嘆いたという。
なお、中央・地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、武内宿禰以来の名家である紀氏の政界における没落を決定的なものとした。
この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。
数年後母が死去したが、夏井は草堂を建立して亡骸を安置し、母が生きているときと同じように朝晩の礼を欠かさなかった。
以前から仏教への信仰心は篤かったが、3年間の喪が明けるまで毎日、この草堂の前で大般若心経50巻を唱えたという。
その後の動静は伝わらないが、配所で没したとされる
【 参考・引用 】 紀夏井 - Wikipedia
現在、紀夏井邸跡の碑が建っちょる周辺は墓地になっちょりますが、邸跡のある場所の地名が「母代寺・父養寺」と言うのは、紀夏井の父母への孝養の証だといわれちょります。
紀夏井邸跡
紀夏井は、平安前期の官人にして、播磨(兵庫県)・讃岐(香川県)・肥後(熊本県)等の国司を歴任したが、貞観8年(868)応天門の放火事件に、異母弟豊城が関与したため縁座して土佐に流された。
この夏井の流された土地は、旧香美郡野市町佐古の亀山地方であるといわれていて、亀山付近から古代の瓦が出土したことから紀夏井邸跡と考えられた。
その後、亀山付近の考古学的調査が進み、亀山からは数多くの登窯や焼き損じの瓦や須恵器片を捨てる灰捨場も発見され、これらは邸跡関係の瓦ではなくなった。
亀山は瓶の破片が見つかるので、瓶山と名付けられたのであろう。
亀山で焼かれた瓦は11世紀のもので、京の大極殿、法性寺の瓦に使われた。
高知県史跡 指定年月日 : 昭和28年1月29日
【 参考・引用 】 県指定 史跡 -高知県教育委員会文化財課-
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