中平兵庫助元忠 - 土佐七守護・津野氏の分家で土佐・中平氏の始祖

中平兵庫助元忠墓

[ 高知県須崎市吾井郷 ]


須崎市の朝ヶ丘中学校近くの県道脇に、コンクリート塀に遮断されて道路側からは気を付けて見んと判らんけんど、下記の看板が建っちょります。

中平兵庫助元忠墓

中平氏元祖 中平兵庫助元忠墓

中平氏元祖 中平兵庫助元忠之墓
各歴 延喜時代より慶長時代に至る六百八十七年間二十一代に亘(わた)り中村の一条家、岡豊の長宗我部家、蓮池の大平家、浦戸の吉良家、本山の本山家、安芸の安喜家、等と共に土佐の七雄として並び稱(しょう)せられた大織冠藤原釜足公の末裔十一代山ノ内蔵人徑高を初代とする津野家十三代津野之高の長男に生まれ常定と稱す年二十才の時主家の内情に依り津野家将来の安泰を計る為長男の身を引き十四代主を弟元勝に譲り梼原郷に往し津野山九ヶ村を領し姓を中平氏と稱し中平氏元祖となる。

以来十五代元実、十六代国泰、十七代基高、十八代定雄、十九代定勝、に至る間津野家の重鎭と云われ智勇兼備の家老として天下麻の如く乱れし戦国の世に治世庶民の安泰の為努力奮闘せし歴史は目覚ましく津野家をして尚よく其の命脉を伝えしめたることは実に元忠の誠忠に依るものであり主家を守り少しもこれに瑕瑾あらしめす繋ぎ得たのである若し彼あらさりせば如何に土佐の歴史に変化を来らしめたかも知れなかったであろう。

元忠の功績は忘る可からさるものがある、元忠は元亀三年十一月二十三日壽七十八き逝去する。

この墓は逝去百年の後曾孫継耀道晃比丘延宝七年西暦1679年建立し自ら碑文を書く道晃比丘は主家断絶後山内一豊公よりの仕官招請を辞した祖父忠清は庄屋として残り兄惟次庄屋を繋ぎ代々幕末まで勤める自分は佐川清源寺(現在)の僧となり元禄十五年六十一才で死去する墓は同寺の裏山にあり。

津野家以来中平家は須崎地域で最古の一千年を越える名門なり、元忠公命日は旧暦十一月二十三日であります。

元忠の長男忠清夫妻及び忠清長男忠光夫妻の墓は道晃が建立し又自己の寿塔も建て全碑文を書き天神山麓にあり。

【 参考・引用 】  説明板より


中平兵庫助元忠墓

説明書きにあるように、津野氏の家伝によると藤原基経(ふじわら の もとつね)の後裔じゃき、始祖は藤原鎌足になり、土佐津野氏の始祖は藤原経高(つねたか)ながです。

中平兵庫助元忠の父になる津野之高(ゆきたか)は藤原経高の四代末裔の中興の祖とされる人物なが。

津野氏に仕え吾井郷(現・須崎市)に住す。

津野元実(弟・津野元勝の子)が一條氏と戦って戸波(へわ)恵良沼で戦死したとき、須崎へ向かった一條氏との軍をむかえ討ち撃退した。

その後、一條氏が佐竹掃部頭らを将とした軍を攻撃に向かわせ、元忠は防戦につとめたが、遂に佐竹の軍門に降り、自分の命にかえて元実の遺児・孫次郎国康助命の助命を乞うた。

一條氏は元忠の忠節にめんじ、津野氏の所領を安堵した。

子孫は山内一豊入国後土崎庄屋になった。

【 参考・引用 】   『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会


土佐にある「中平氏」の殆どは、この「中平兵庫助元忠」が始祖と言っても過言ではないがです。

中平久左衛門墓 - 井口事件(栄福寺門前事件)下士・中平忠次郎の祖父

此処も、中平氏一族の末裔じゃと思います。


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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