田岡祐吾 - 土佐勤王党に69番目に加盟

田岡祐吾墓

[ 高知県高知市井口町 ]


田岡正躳(たおか まさみ)は、天保6年(1835)、家老山内(酒井)氏の家士・田岡文二郎の長男として小高坂村(現・高知市)に生まれ、名を正路、通称・鉉太郎、喜之助、小文と言う。

文久2年(1862)6月、藩主・山内豊範の参勤交代に、主君・山内下総(酒井勝作)に随行しちょりますが、この時、山内下総に時勢を説いた事で、御共廻りを外され謹慎の処分を受け帰国しちょります。

酒井勝作(山内下総) - 土佐勤王党に協力し保守派政権を作る 2013-09-02

帰国後、土佐勤王皇党にゃ田岡祐吾として69番目に血判加盟しちょりますが、主君が山内下総(酒井勝作)であったため土佐藩士の一軽格の身分じゃ、寸暇もなく党員としての充分な活動は出来んかったようです。

それでも、青蓮院宮令旨事件で間崎哲馬・広瀬健太・平井収二郎が投獄された時にゃ、寛大なる処置をするよう進言したり、また土佐勤王党の獄で、首領・武市瑞山(半平太)や同志らが投獄された時も、 鎌田清次郎と主君・山内下総(酒井勝作)に一書を出したりと、同志らと救出活動をしちょります。

間崎哲馬(滄浪)の墓 2010-04-25
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維新後は、官権派新聞「高陽新報」の記者を務めたり、後には小高坂村の戸長(明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者)や村長を歴任し、明治39年69歳(『高知県人名事典』では、72歳没)で生涯を閉じちょります。

墓碑は、嫡男・田岡正樹。

【 参考・引用 】 
『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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