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野村長平 - 無人島「鳥島」まで漂流した無人島長平の墓

野村長平墓

[ 高知県香南市香我美町 ]


以前には、「無人島長平像」の方を御紹介しちょりますが、今回はお墓の方です。

無人島長平の像 2008-03-26

野村長平墓

場所は、「無人島長平像」の左側にある岸本青年団の皆さんが建てた記念碑の脇に、一基ぽつんと建っちょります。

野村長平墓

野村長平さんが、漂流したがは天明5年(1785)1月の事ながです。

赤岡村(現・香南市赤岡町)から、直線距離で約30Km東の田野(現・田野町)へ3百石船で御蔵米を運んだ帰路に大シケに遭い、舵・帆柱を失って操船が出来ん状態になり、そのまま黒潮に乗って東南に約600Km離れた伊豆諸島の鳥島まで流されたがです。

漂着時には長平以外に3名の乗組員がいたが、漂着後2年以内に相次いで死亡し、以後長平は無人島での単独生活を強いられる。

鳥島での主な食物はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物であり、当初は火種を持たなかったためそれらを生で食した。

また長平らはアホウドリの肉は乾燥して保存し、これをアホウドリの不在期間(春の巣立ちから秋の営巣まで)の主な栄養源とした。

水は雨水を水源とし、これを多数のアホウドリの卵殻などに蓄えた。

長平の漂着から3年後の1788年に大坂船が、さらに2年後の1790年に薩摩船が鳥島に漂着し、無人島生活者は十数名に増え、鍋釜・大工道具も揃った。

彼らは長平と大坂船・薩摩船の船頭の3名をリーダー格として共同生活を送り、食料確保の他、住居や道の整備、ため池の工事などを組織的に行った。

しかし、精神的な影響や栄養(ビタミン類と思われる)不足などで、漂着者のおよそ3分の1は死亡していった。

漂着から数年が過ぎても島の近傍に一隻の船影も見られないことから、故郷への帰還を目指す長平らは自ら船の建造を始める。

材料となる木材は島に漂着する難破船の部品を手分けして集め、また釘については炉を構え、古釘や碇を溶かして作った。

造船開始から数年の後、船体がつぎはぎだらけの30石の帆船が完成した。

船には生存していた漂着者14名全員が乗り込み、数日の航海で青ヶ島を経て、無事八丈島に辿り着いた。

長平にとっては13年ぶりの社会復帰であった。

一行はこの地で伊豆の国代官所(幕府直轄)の調べを受けた後、幕府の御用船で江戸に送られた。

江戸での本格的な調べ(勘定奉行所および土佐藩邸)が済むと一行は解散し、それぞれ帰路に散った。

これらの調べの記録は後世に残った。

長平は1798年(寛政10年)1月19日に土佐へ帰還した。

この時、地元では長平の13回忌が営まれていた最中であったという。

土佐への帰還の際、年齢は37歳であったが、土佐藩から野村姓を名乗ることを許された。

その後、野村長平は各地で漂流の体験談を語って金品を得るなどし、また妻子にも恵まれ、60年の生涯を全うした。

帰還後につけられた「無人島」という彼のあだ名は、墓石にも刻まれた。

【 参考・引用 】  野村長平 - Wikipedia



因みに、土佐にゃ、もう一人漂流体験をした有名なジョン万次郎さんがおりますが、彼が漂流したがは天保12年(1841)の事ですき、野村長平さんよりも50年以上後の事です。


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