真覚寺 - 安政の大地震の記録を綴った『真覚寺日記』で有名

真覚寺

[ 高知県土佐市宇佐 ]


ここ真覚寺は、土佐市宇佐の山の麓にある浄土真宗の宗派の1つになる、真宗大谷派のお寺さんです。

と書いただけじゃ、ただのお寺さんじゃけんど、土佐だけじゃのうて知っちゅう人は知っちゅうと言う、有名なお寺さんんがです。

幕末の頃の話じゃけんど、この寺の八代目の住職じゃった井上静照と言う人が、俗世間の出来事や噂話などを安政元年(1854)から明治元年(1868)まで綴った『真覚寺日記』が残っちょるがです。

年表上は安政元年(1854)じゃけんど(11月27日に改元)、嘉永7年11月5日(1854)に、南海トラフを震源とする巨大地震が発生しちょります。

世に言う「安政大地震」で、嘉永7年が干支の組み合わせで言うと51番目になる甲寅(きのえとら、こういん)の年じゃったき「寅の大変」とも言われた大地震なが。

土佐領内では推定波高が5~8mの大津波に襲われ、倒壊家屋3000余戸、焼失家屋2500余戸、流失家屋3200余戸、死者372人余で、場所によっては約1m前後の沈下または隆起があったと言われちょります。

今日の人口密度と家屋密度にしたら、何倍、いや何十倍もの被害にもなるろーと思われる、大地震じゃったがです。

静照さんが、日記を綴る切っ掛けになったがが、宇佐も大地震で発生した大津波に襲われ甚大な被害を被った事で、この大地震の記録を後世に書き残すために始めたがじゃったそうです。

その『真覚寺日記』は、「5日の地震」について下記のように記されちょります。

七ツ半時俄に一天薄闇く相成り近代未曾有の大地震、山川鳴り渡り土煙空中に満ち飛鳥も度を失い、人家は縦横無尽に潰崩し瓦石は四方へ飛び、大地破裂してたやすく逃げ走る事も成り難く、男女只狼狽周章し児童呼叫の声おびただし、間もなく沖より山のごとき波入り来たり宇佐福島一面の海と成る・・・・・


その中にゃ、「アッと言う間の出来事で、逃げ場を失った犠牲者が数百名・・・・」とも書かれちょります・・・・・

【 参考・引用 】  『真覚寺日記』


この『真覚寺日記』は、原本は『地震日記 九巻』と、『晴雨日記 五巻』からなっちょり、土佐の郷土史家・寺石正路先生が『真覚寺日記』として纏め名付けられちょります。

寺石正路墓 - 土佐の歴史・地理・考古・民俗学の第一人者 2011-06-13

平成23年(2011)に起こった東日本大地震の記憶もまだ新しい昨今、数年、数十年先にも迫り来るであろう南海トラフ地震への教訓として、一度は『真覚寺日記』を読んで欲しいものです。

『真覚寺日記(改訂版第一集)』 真覚寺日記改訂版編集委員会編
(土佐市郷土史研究会、2011年)

図書館で閲覧出来ます。



真覚寺

また、この『真覚寺日記』の『晴雨日記』の項にゃ、地震以外の幕末の土佐の事も書かれちょり、坂本龍馬に関する事も書かれちょります。

土佐藩砲台跡 - 国・史跡(須崎市) 2010-10-24にも書いたけんど、イカルス号事件の時の須崎湾の状況が下記のように。

舳艫相銜で港の内外に投錨し、煤煙天に冲し今にも手切となれば、砲声一発血の海を湧かそうと人心競々として安き心もなく・・・、眼のあたり外艦の来航を見て、外国との開戦を危ぶみ、荷物を片付け避難し、警戒のため毎夜市中に松明を焚き、須崎浜白々昼の如く、雨中開戦のため蓑の用意、英人の首級を包む油紙大小数枚・・・。


また、土佐史研究家・広谷喜十郎先生の書かれた高知市広報「あかるいまち」に

高岡郡宇佐浦の『真覚寺日記』には、同年九月末に「御前へ出けるニ金五拾両大義料として下る」とある。

龍馬がライフル銃千挺を斡旋(あっせん)するために帰国した折に、容堂に会い五十両を拝領していたという。

『高知市歴史散歩』 319 龍馬・春嶽・容堂  -高知市広報「あかるいまち」2011年6月号より-


ともある。

『真覚寺日記』は地震の事だけじゃのうて、幕末土佐の庶民の暮らしや風俗を書き記した、貴重な資料でもあるがですねー。

最後にちょっと余談じゃけんど、「安政元年」のように年号の改元に付いて・・・・・。

改元はその理由を基準として、四つに分類される。

① 君主の交代による代始改元
② 吉事を理由とする祥瑞改元
③ 凶事に際してその影響を断ち切るための災異改元
④ 三革を区切りと見なして行われる革年改元「革令(甲子の年)・革運(戊辰の年)・革命(辛酉の年)」

【 参考・引用 】   改元 - Wikipediaja


①は、昭和天皇が崩御されて、「平成」になったようなケース。

②は、飛鳥・奈良時代から平安時代初期にかけてで、大化6年(650)に穴門(長門)国司より白雉が献ぜられた事を「吉兆」として、年号を「白雉」に改元したケース。

③は、②のケースの飛鳥・奈良時代から平安時代初期には祥瑞改元(または代始改元)が通常だったがですが、醍醐天皇による923年の「延喜」から「延長」への改元後、災害や災いが起こるようになって、「改元」が始まったケース。

その「災異改元」の始まりは、延長3年(925)に藤原時平の外孫・慶頼王が僅か5歳で薨去から。

延長8年(930)には、御所の清涼殿に落雷で藤原清貫等が死去し、その直後に醍醐天皇が発病、譲位を寛明親王に譲るが直後に崩御と災いが続くがです。 

じゃー異変の始まり延長3年(925)に何があったか・・・・。

菅原道真が、大宰府で亡くなっちょりますねー。

延長8年(930)の御所・清涼殿の落雷で亡くなった藤原清貫は、菅原道真の排斥に関わっちょった一人じゃった。

菅原道真が大宰府に流された理由は、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪(本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。)を謀ったと誣告(他人を罪におとしいれようとして、いつわり訴えること。)され、長男・高視を含め子供4人も流刑に処せられたがです(他にも諸説あるけんど・・・・・)。

そんで一連の異変を、「菅原道真の祟り」じゃとして恐れ、改元しちょります。

④は、前回の記事の西内清蔵の亡くなった年号「文久元辛酉年(1861)」十一月廿五日」が、そのケース。

辛酉(かのととり、しんゆう)

中国の前漢から後漢に流行した『緯書』(隋の煬帝により禁圧され散逸、三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)に『易緯』、『詩緯』の逸文が残るのみ)には、庚申に続いて辛酉も干支ともに金性であり、かつ辛は陰の気なので、人の心がより冷酷になりやすいとされた。

辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。

日本において辛酉の年に改元する習わしは、政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱により平安時代の昌泰4年(901年)の辛酉の年に元号を「延喜」と改めたことから始まった。

前年の庚申年と2年続けて改元が行われることが多い。

これは明治になるまで続けられた。

【 参考・引用 】   辛酉 - Wikipedia


「万延」から「文久」への改元は、讖緯説(古代中国で行われた予言のことであり、讖緯の説、讖緯思想、図讖などと呼ばれている。)に基づく、辛酉革命の年に当たるため改元されちょります。

が、朝廷や幕府の一部には、翌年は辛酉革命による改元の年(かつ当時の慣習で辛酉改元は2月に行われる事になっていた)なのに、1年足らずのための改元はおかしいとする異論が出されたものの、黒船来航以来の国内の混乱に危機感を抱いた孝明天皇の強い意向を受けて行われたのだという。

【 参考・引用 】   文久 - Wikipedia




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