へんろ石 - 24 第26番札所・金剛頂寺麓、元橋傍の伊藤萬蔵道標

第26番札所・金剛頂寺麓、元橋傍の伊藤萬蔵道標

[ 高知県室戸市元甲 ]


室戸市元甲の元橋を渡った旧道から、第26番札所・金剛頂寺への分岐点に、この伊藤萬蔵道標が建っちょります。

表にゃ、一部読めんけんど「嵯峨天皇淳和天皇勅願○ 第26番霊場西寺」と刻まれちょります。

嵯峨天皇(在位809-823)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納し、次代の淳和天皇(在位823-833)も勅願所として尊信し、第十世の住職まで勅命で選任されちょります。

西寺とは室戸三山の一寺院でもある、第26番札所・金剛頂寺の通称じゃき、このように刻まれちょるがです。

第26番札所・金剛頂寺麓、元橋傍の伊藤萬蔵道標

右側面にゃ「尾張国名古屋市塩町4丁目 伊藤萬蔵」とあり、左側面にゃ「室津 石工 栄太郎」と刻まれちょります。

略歴

天保四年正月、尾領国平島村(現一宮市丹陽町平島)に於いて、農業治左衛門・りかの長男として生まれた。

少年時代、名古屋城下の米穀商に丁稚奉公に出された。

生来の努力家、若くして独立して店を持った。

世状も又、三百余年続いた幕藩体制が崩壊して、明治新政府に移行する激動の時代、商才に富んだ万蔵はこの機会を逃す事なく、時流にも乗った。

延米・仲買・株取引・金融・貸家業と串広く商売の手を広げ、巨万の財力を得た。

萬哉はこれを私する事なく、これは「神仏や世間様のお陰」として、全国の有名社寺に対して石造物の寄進を続け、感謝の日々を送った。その数は千基ともいわれているが、私が調査確認をしたものは426件であった。

晩年は家督を三男に譲り、自らは「徳山」と号し景雲橋の東に隠居した。

万蔵は神仏を崇め、寄進を続けた他には、これといった道楽や趣味もなく、「一粒の米にも感謝をして」を口癖に、感謝と堪忍の文字を揮豪に託して、多くの人に配った。巷ではこれを夫婦喧嘩のお守りとして珍重したとの逸話も残されている。

萬蔵は昭和2年1月28日午前5時、九十五才の生涯を閉じた。

当時の新聞は一市民の死亡を、異例とも思える取りげ方をしている。

いわく積善の人・生活に感謝し神仏えの信仰に生きた人・立志伝中の人・意志堅固にして自信家であった等々、その奇人振りに併せて報道をしている。

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【 参考・引用 】   『萬蔵報』 2005年2月号 (伊藤萬蔵研究家・田野尻弘氏のミニコミ誌)


伊藤萬蔵

五条橋の北西、四間道の東側はかつて塩町と呼ばれていたところです。

ここに明治時代、伊藤萬蔵という人が住んでいました。

伊藤萬蔵は若くして商才を発揮し、大きな富を得、名古屋米会所(米の取引所)が塩町に開かれたときには仲買人の代表格にもなっていました。

また、長い間、全国各地の寺社へ鳥居、灯籠、狛犬などの寄進を続けており、氏の寄進物は、四間道の浅間神社の狛犬、円頓寺商店街の金刀比羅神社の鳥居をはじめ全国に残されており、その数は確認されているものだけでも400以上に及び、総数は1,000基を超えるともいわれています。

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【 参考・引用 】  広報なごや 平成24年3月 西区




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