栗山城址 - 城主の十市・細川氏は土佐の守護職・細川氏と同族

栗山城址

[ 高知県南国市十市 ]


栗山城址は、南国市十市にある四国八十八箇所霊場第32番札所・禅師峰寺のある峰続きの東峰にあるがです。

写真は、禅師峰寺から見た、栗山城址のある東峰。

栗山城址

禅師峰寺の麓から車道じゃのうて、途中急な九十九折れの坂道があるけんど歩き遍路の山道を上って行くと、途中、十市地区会が建てられた「尾根道散策コース」の立て札がある。

東に山道を入って行くと月見崎の辺りまでは行けたけんど、そこから先は雑草や木々が生い茂っていたので、時期的にマムシが怖いと言う事もあり、今回は城址まで行くことは断念したがです。

栗山城址

写真は「尾根道散策コース」の立て札にある月見崎の石碑じゃけんど、彫りが浅く文字が判読できませんでしたき、何の碑なにか判らんかった・・・・・。

栗山城址

禅師峰寺の麓の300m程南は土佐湾じゃけんど、写真はその海岸の堤防から撮っちょります。

写真左端の方の、禅師峰寺のある峰の麓辺りが栗山城主・十市細川氏の「細川土居城跡」として、高知県の埋蔵文化財に登録されちょりますが、土居跡は宅地や畑になっており遺構は何もないがです。

この地を支配したがは、十市細川氏の祖・細川重隆で室町幕府の管領で細川氏繁栄の礎を築いた細川頼之の後裔じゃと言われちります。

足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属す。

管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行う。

天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚するが、その後は赦免されて幕政に復帰する。

【 参考・引用 】  細川頼之 - Wikipedia


この十市・細川氏も明応年間に、田村城(南国市)で土佐守護代を務めた細川氏と共に「管領目代」を命ぜられ、十市に入って来たようですき、栗山城の築城時期は明応年間(1492-1501)じゃそうです。

天文13年1544)十市細川氏の祖・細川重隆の4代目・細川国隆の時、長宗我部国親に降ってその配下となり、子の細川定輔(入道して宗桃)は、永禄5年(1562)本山氏の朝倉城攻めや、安芸国虎の姫倉城等を攻め長宗我部氏の重臣として活躍しちょります。

天正2年(1547)に長宗我部元親が幡多郡を攻め落とすと、細川宗桃は吉奈鶴城(現・宿毛市)の城主となり、栗山城は宗桃の長男・備後守が継いだと言う・・・・・。    

因みに二男・頼定(豊前守)は池城城主(現・高知市)じゃった人で、子の池 頼和(四郎左衛門)は長宗我部国親の娘を娶って、土佐水軍の主力を勤めちょったけんど、妻と不和になり讒言(事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。)により、謀反の罪を着せられ、長宗我部元親の命で自刃されられちょります。

【 参考・引用 】
『土佐國古城略史 全』 宮地森城・著
『日本歴史地名大辞典 高知県の地名』 平凡社




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[ 注意! ]
■ 山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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