中島與一郎 - 戊辰戦争・ 母成峠の戦いで落命

中島與一郎の眠る猪苗代・西円寺)

[ 福島県猪苗代町字新町・西円寺. ]


今年(2014)春の東京出張の折の事じゃけんど、3月22-23日の週末に1泊2日で昨年時間がなくて行けんかった場所を訪ねるため、再び会津を訪んねたがです。

去年の会津若松は桜が綺麗じゃったけんど、僅か数週間違うだけで今年は寒かった。

出発前都内のホテルで見た会津地方の天気予報は「雪」じゃったので、ある程度覚悟はしちょったけんど、郡山から磐越西線に乗換えて山の中に入って行くと、案の定、磐梯熱海辺りから雪がチラつき始めたがでした。

電車が猪苗代駅に着いた時にゃ、既に周辺は一面積雪に覆われて真白け・・・・・。

今回、猪苗代に降りた目的は、西円寺に西軍(新政府軍)としてたった一人で眠る土佐藩出身の中島與一郎の墓を詣でるためじゃったがです。

雪の降りしきる中、雪を踏みしめながら約30分程歩き、やっと西円寺に辿り着くと、写真のように墓所のある辺りは真白く雪に覆われちょり、探すにも何処に中島與一郎の墓があるのか皆目判らんかった。

寺の方でお教えいただこうと思うたけんど、あいにく御留守のようで、仕方なく墓地の方向を向いて手を合わせて来たがでした。

中島與一郎光尹は天保12年(1841)に土佐郡秦泉寺村(現・高知市)に生まれ、土佐勤王党にゃ62番目の血盟同志として加盟しちょります。

土佐勤王党としての業績は判らんけんど、戊辰戦争にゃ土佐藩迅衝隊砲隊士として参戦し、慶応4年 (1868)8月21日に始まった「母成峠(勝軍山)の戦い」(福島県)で、勝軍坂にて戦死しちょります。

28歳。

8月21日、濃霧の中、新政府軍2,200は本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。

新政府軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とし、他に長州藩兵、佐土原藩兵、大垣藩兵、大村藩兵を加えて6藩で編成されていた。

戦いは、峠を新政府軍が制圧し、午後4時過ぎにはほぼ勝敗は決したと言う。


会津にしたら予想外の僅か一日での藩境での敗退が、その後の会津戦争で敗北への大きな一歩となったと言えよう・・・・・。
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