鳴無神社 - 参道は海に向かって延び「土佐の宮島」と称される

鳴無神社

[ 高知県須崎市浦ノ内東分字鳴無・鳴無神社]


浦ノ内湾は、宇佐側の湾口から湾奥までが3里ある事から横浪三里と呼ばれる波静かなリアス式海岸の続く景勝地で、その西奥の南岸側に、この鳴無神社(おとなしじんじゃ)はあるがです。

この神社の参道は、海に向かって伸び一ノ鳥居のすぐ前は波打ち際になっちょりまして、地元じゃ「土佐の宮島」と称されちょります。

鳴無神社

社記

当社味鋤高彦根尊と申伝、則淡路廃帝天平宝宇年中頃より之御神と申伝、尤一宮大明神(土佐神社)と同体、則大明神鳴無へ御幸之節、金剛丸と申御船に召、船越と申山を越御木給、依右船越山と于今申伝。


当社の御祭神は、味鋤高彦根尊(あじすきたかひこねのかみ)と伝わる。

則(すなわち)淡路廃帝(淳仁天皇)の天平宝宇年中頃より、御祭神と伝わる。

一宮大明神(土佐神社)と同じ神で、大明神が鳴無へ御幸之節、金剛丸と言う御船に召かれて、船越と言う山を越えてこの地に宮を建てたと言うような意味じゃろうか・・・。

鳴無神社

旧記によれば、この大神此の地に鎮座したのは、今より1550年余(西暦460年)の昔、雄略天皇の4年11月晦です。

大神は天皇との問に諸事有って京の葛城山を出られ、船に乗って海に浮び浦ノ内南半島の太平洋岸にご上陸。

海水煮き火食せられ、その立ち上る煙を見た里人が行って見ると、現人神であられたので、尊び敬って大神と御船(金剛丸)を担ぎ、山を越え玉島(現社殿地)に迎えた。

そして宮殿を建て大神を奉安し、御船は社殿右脇の山に封じ、御船山として注連縄を張り、大切にしている。

鳴無神社説明板より


鳴無神社

由緒

当社祭神は土佐神社と同神にして(土佐神社は鳴無神社の別宮)雄略天皇22年この地に御祭神あり、土民13人御舟金剛丸と共に迎え来て、高加茂大明神と崇称し鎮祀する。

後、200余年白鳳13年8月14日地震のため当郷の地大半一度海底に沈みしため、今の地に社殿を設け和鎮す・・・・。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁


この鳴無神社の御祭神・味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)が、現・土佐国一之宮・土佐神社の御祭神・一言主神(ひとことぬしのかみ)と同一神と言うのは、味耜高彦根神の別名を一言主神とも言うからやき。

そんで、土佐神社は鳴無神社の別宮とされちょり、昔は土佐神社の祭礼「志那祢様(しなねさま)」の神幸祭は、この地まで船渡御をして船遊びと呼ばれよったそうながです。

ですき、土佐神社の本宮に当る此処・鳴無神社の祭礼は、今でも土佐神社の祭礼日と同じ8月24日の宵宮と25日の本祭が行われ、古の土佐神社の船遊びを再現して、御輿を乗せた御座船と数十隻の供船が大漁旗を旗めかせて浦ノ内湾を船渡御するがです。

古の時代の鳴無神社の船渡御(船遊び)は京ノ都にも、知れ渡っちょったようで、平安時代の歌人・藤原家隆も見た事もない船遊びの情景を詠んじょります。

『土佐の海に 御船浮かべて遊ぶらし 都の空は 雪解のどけき』

また平安時代中期の雅楽家・和迩部用光(わにべのもちみつ)ら、当時の都でも有名な楽人も時々土佐に来て、楽を奏して祭典に奉仕されたそうなが・・・・・.。

【 参考・引用 】  国の重要文化財「鳴無神社」の夏祭り - 満天土佐



創建は、1500余年前と伝えられちょり、社殿は古来より度々建て替えられちょり、土佐の戦国時代の武将で蓮池城城主・大平氏一族も崇敬が熱かったと・・・・・。

鳴無神社

現在の社殿は寛文2年(1663)に土佐藩第2代藩主・山内忠義が再建し、その後腐朽したため昭和31年~32年に解体修理が行われちょります。

正面の拝殿は、背後に妻入りの幣殿を合わせた造り。

本殿は、三間社春日造、こけら葺で、江戸時代初期の東照宮建築の系統のようで柱は朱塗りで極彩色な造りになっちょり、昭和28年に国の重要文化財に指定されちょります。

因みに、土佐神社に遷移したのは、神さんが他の場所に移ることを希望し、此処より石を投げ飛ばして落ちた所に宮を建てる事にした鎮座地を定める石が、土佐神社に伝わる「礫石(つぶていし)」ながです。

鳴無神社

鳴無神社へは陸路からも行けるけんど、横波三里の景観を眺められる巡航船で行けば、一ノ鳥居の前に着きます。

たまには、車を置いて、ゆったりと片道一時間程の船遊びをするのもエエと思いますぜよ・・・・・。

【 参考・引用 】  巡航船/須崎市


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