一宮忠霊塔に刻まれた霊名 - 大石俐左衛門・坂本瀬平・小松重保

一宮忠霊塔に刻まれた霊名

[ 高知県高知市薊野 ]


高知市薊野にある一宮忠霊塔に、大石俐左衛門・坂本瀬平・小松重保の名も刻まれれ合祀されちょります。

[ 大石俐左衛門 ]

血名名簿にゃ名はないけんど、土佐勤王党に加盟し本山郷(現・本山町)に於ける中心人物じゃった人です。

大石俐左衛門守孝は文政12年(1829)本山郷下津野村の郷士・大石守治の二男に生まれ、早死した兄の跡目を継ぎ、土佐郡一宮村(現・高知市)に居住し槍・剣術・馬術・砲術をも学んじょります。

土佐勤王党員として活動し、熊本藩士で尊皇攘夷派の活動家じゃった宮部鼎三が来た時、土佐勤王党との仲介役を果たす。

文久2年(1852)にゃ五十人組に加わり、その際、下津野村の大石家は同行の中岡慎太郎や片岡佐太郎らが宿泊しちょります。

また慶応4年(1868)戊辰の役で土佐藩の主力部隊じゃった迅衝隊が遠征の際にも、大石家にも何名かの隊士が宿泊したそうです。

大石俐左衛門本人も、迅衝隊士とし東征に参戦しちょりますが、慶応4年4月22日、野州安塚村(現・栃木県下都賀郡壬生町)に於ける安塚の戦で銃創を受け負傷し、翌夜に壬生城中にて40歳で亡くなっちょります。

(安塚戦)激戦十時頃に至る。

刀を揮て賊を斬る者亦多し、賊遂に潰ゆ。

・・・・・時に一賊あり、我追兵に混し、大石俐左衛門が近づくを顧みて発射す。

俐左衛門重傷を得たり。・・・・・

【 参考・引用 】  『東征記』 筆者不明 片岡健吉・旧蔵


[ 坂本瀬平 ]

坂本瀬平は文政9年土佐郡井口村(現・高知市)に生まれ、剣術に優れ剣術取立役になり、安政4年(1857)須崎の陣營詰となる。

文久2年(1852)にゃ五十人組が組織された事を聞き、急遽後を追って京都で五十人組への加盟を懇願する。

しかし、土佐に於いて参政・吉田東洋の暗殺事件の直後、下手人の探索に当って居たことが災いし、藩庁のスパイじゃないかとして疑われ、加盟を許されんかった。

それでも、江戸に向かっていたので、直も怪しいと五十人組の今橋権助・檜垣清治・田内衛吉の3名に小田原にて殺害されるがです。

37歳(35歳とも・・・・・)。

[ 小松重保 ]

小松重保は土佐藩御士格で、戊辰の役で土佐藩迅衝5番隊士として東征に参戦し、慶応4年(1868)今市の戦で負傷し、横浜の病院で死去。

22歳。

一宮忠霊塔に刻まれた霊名

【 参考・引用 】
『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会


[ 注意! ]
■ 山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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