田所左右次 - 土佐藩の砲術家で土佐勤王党にも参加

田所左右次墓

[ 高知県高知市薊野・真宗寺山 ]


田所左右次は通称で、名は寧親(やすちか)、後に作太郎と称し墓石にもそう刻まれちょります。

家は、代々砲術家として山内氏に仕えた家系で、文化9年(1812)土佐郡潮江村竹島(現・高知市竹島)の田所幸馬直和の二男として生まれちょります。

墓石の傍にある河野家の墓碑にゃ、「伊予の豪族河野氏に出ず 天正年間土佐に来り 長宗我部氏に仕え田所氏と称す 後山内氏に仕う 代々砲術家なり 明治維新後旧姓河野氏に復す」とある。

幕末の土佐藩に於ける西洋砲術家の双璧が、坂本龍馬も学んだ徳弘孝蔵と、この田所左右次ながです。

徳弘董斎邸跡 - 龍馬の高嶋流砲術の師匠 2009-11-23

天保14年(1843)長崎に出て、オランダ式の洋式砲術を高島秋帆を学び、幕末海防が急務になると土佐藩の海防の御用を勤め、幡多郡下田港や須崎港に樋口真吉らと砲台を築いちょります。

土佐藩砲台跡 - 国・史跡(須崎市)2010-10-24

また安政元年(1854)藩命を受け藩砲術指南役として土佐藩砲奉行・池田歓蔵に従い、河田小龍や鉄砲鍛冶・伊藤丈助らと薩摩へ赴き、大砲鋳立所(反射炉)や桜島工作場(西洋式軍艦造船所)などを視察しちょります。

安政2年(1855)江戸へ出に高島秋帆を訪ね、江川英龍(韮山代官)の基で高輪十字砲台の築造にも従事し、佐久間象山や勝海舟とも海防を論じちょります。

安政3年(1856)土佐藩仕置役に復帰した参政・吉田東洋から藩主の姫君の婚礼調度品の金具制作を命ぜられるけんど、意見が合わず拒否したため、安政6年(1859)江戸での藩費浪費を名目に家禄没収・家名断絶となり、高知城下から東の安芸川限追放の処置を受けるがです。

けんど、この処置に不満じゃったがですろー、憤慨の気やるところなく謹慎及ばず、今度は須崎に蟄居となるがです。

文久元年(1861)武市半平太が土佐勤王党を結党すると、血盟同志にはなっちょりませんが、土佐勤王党にも参加し、安芸郡の田野学館で中岡慎太郎、島村寿之肋、平安佐輔らとも時勢を論じたりしちょります。

因みに中岡慎太郎は、田所左右次の門人の一人で砲術免許皆伝を受けちょります。

明治6年(1873)須崎の地で死去しちょります。享年62歳。

元は須崎に葬られちょりましたが、後に筆山に改葬されちょります。

土佐勤王党にも参加した田所左右次の影響もあったがでしょうか、嫡男の田所壮輔は土佐勤王党にや37番目に加盟し脱藩して三田尻に出て萩藩の忠勇隊に入隊し禁門の変にも参戦しちょりますが、大敗を喫し長州へ敗走するがですが、元治元年(1864)招賢閣で自刃ししちょります。

また親族の田所騰次郎は、吉村虎太郎らと大和義挙に参加しちょりますが、津藩兵に捕らえら京都六角獄で斬首に処せられちょります。

【 参考・引用 】 『高知県人名事典』 高知新聞社 




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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