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権兵衛井流 - 野中兼山が一木権兵衛を取り立てる切っ掛けに

権兵衛井流

[ 高知県高知市布師田 ]


数日前、高知市の東部の布師田周辺を自転車でたつくり廻りよったら、用水路の傍に下記のような高札が目に止まり、何んじゃろーと思うて立ち止まって見てみたら「権兵衛井流(ごんべえゆる)」と書かれちょりました。

権兵衛井流

・・・通常は水量の調節を行うが、洪水など増水時には用水路の水門は閉めて下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開けて国分川に水を流し、上流を浸水から守ったり堤防の決壊を防ぐための仕組みです。

・・・一木権兵衛先生が発案して普請した水門として、"権兵衛井流"と呼ばれています。

布師田の誇る義人で一領両具足出身の一木先生が、野中兼山に抜擢されるきっかけとなった水門です。

・・・当時、土佐藩の基盤を拡大強固するために、土木・灌漑・干拓・港湾事業等を強力に進めていた執政野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中布師田でこの"権兵衛井流"を目にして驚き、村人に問いただして一木先生を呼び出し、どのような考えでこの水門を作ったか述べさせました。

一木先生は上記のような機能を考えて普請したことを話しました。

それは、兼山が山田堰から多くの用水路を作る計画の中で考えていた仕組みと正に符号するものでした。

すぐに郷士に取り立てられ一族百名ぐらいとともに山田堰に関係して用水路の建設に関わり、技術の確かさや有能さが証明されたそうです。

その後、兼山の計画する重要な工事で責任者を務めました。・・・

【 参考・引用 】 高札より抜粋


権兵衛井流

一木権兵衛が、野中兼山の失脚後も室戸港(津呂)の難工事を成功させた時、延宝7年(1679)6月17日夜、甲冑・太刀を海神に投じて翌未明切腹しちょるがです。

それは、一木権兵衛が野中兼山に対する恩義と忠誠の外に、野中兼山を失脚させた土佐藩に対する痛烈な抗議の意思表示でもあったがですろー。

『海神に祈る』 田中貢太郎・著 - kaijinni_inoru.pdf:


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