野老山吾吉郎 - 池田屋騒動に巻き込まれ深手を負い自刀

野老山吾吉郎墓

左が野老山吾吉郎、右は父・山野邊壽満平墓

[ 高知県高知市薊野・真宗寺山 ]


元治元年(1864)6月5日京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋で、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去ると言う襲撃計画の実行・中止について長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士が会談している所を、京都守護職配下の新選組が襲撃した池田屋事件が起こるがです。

この襲撃計画のメンバーの中に、土佐藩の北添佶摩(闘死)、石川潤次郎(闘死)、伊藤弘長(闘死)、越智正之(闘死)、望月亀弥太(脱出後自刃)が居った事が発覚したことが原因で、坂本龍馬の描いちょった北海道防備開拓の夢も費えるがです。

この事件の関係者じゃないけんど、運悪く偶々通りかかったのが土佐藩の藤崎八郎と野老山吾吉郎ながでして、警備中の幕府方に尋問を受けて陰謀者たちの一人として間違えられ戦闘になるがです。

野老山吾吉郎は弘化3年(1846)高知城下鉄砲町(現・高知市桜井町)に土佐藩足軽・山野邊壽満平の2男として生まれちょります。

藩の新規召出しを受け、和食村(現・芸西村和食)の野老山氏の分家であった事から旧姓の「野老山」を名乗るがです。

武市半平太が土佐勤王党を結成すると血盟同志の連判状にゃ名はないけんど加盟しちょります。

文久3年(1863)藩命で京都藩邸の警衛を命じられ、京都河原町土佐藩邸詰めながら、諸藩の勤皇の志士と交わるがです。

そして悲運にも、同じ土佐藩の同志・藤崎八郎と、志士を援助しょった儒学者・板倉槐堂を訪ねる途中、池田屋騒動に巻き込まれるがです。

新撰組との戦いで深手を負い長州藩邸に逃げ込むがですが、刀傷深く自ら割腹して果てたそうながです。

亡くなったのは事件の2日後の元治元年(1864)6月7日、享年僅か19歳で、若い命を散らしちょります。

【 参考・引用 】 『高知県人名事典』 高知新聞社

 
坂本龍馬とも交流があったとも言い、事件で亡くなった神戸操練所の塾生・望月亀弥太や北添佶摩らと共に彼の死をも嘆いたとか・・・。 

因みに野老山氏の先祖は伊賀の人で、6世紀後半に蘇我氏の傍流(後の長宗我部氏)が四国に赴任するのに従い奈良を離れ、以後、長宗我部氏に代々仕えたそうです。

長宗我部元親が四国平定の際に、功績として野老山一帯(高知県高岡郡)の所領を賜った事が野老山姓の由来であるとされちょりますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が西軍に付き敗れた事で改易となり、郷士となったがじゃそうです。

また、吉永小百合さんの事はファンの人らーは「サユリスト」と呼称するけんど、「コマキスト」と呼ばれた女優の栗原小巻さんは野老山吾吉郎とは一族の御子孫になるがです。


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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