毛利吉成 - 豊前国・小倉藩城主で豊臣秀吉に仕える

毛利吉成(毛利勝信)墓

[ 高知県高知市中秦泉寺 ]


高知の人じゃったら、昨年(2013)10月19日~4泊5日の日程で、ミクロネシア連邦への友好記念ツアーが行われたがを覚えちょる人もおるろー。

ミクロネシア連邦ちゅうがは、赤道に近いフィリピンの東に浮かぶカロリン諸島に属する607の島からなり、東西に約3000kmに渡って広がる国ながです。

当然住民はミクロネシア系の人々じゃけんど、その中に約2割の日系ミクロネシア連邦人もおるがです。

その日系ミクロネシア連邦人の始祖の一人になる一人の土佐人が遥か南の太平洋の島国に渡った事から、土佐とミクロネシアの友好の歴史が始まっちょります。

その高知市出身の土佐人は森小弁と言う。

彼が海を渡ったのは明治25年(1892)トラック諸島(現チューク州)。

そして現地の娘と結婚して、同諸島水曜島の大酋長に押し上げら、11人の子宝に恵まれ現在2000人を超す子孫が暮らしちょり、現在3期目のミクロネシア連邦第7代大統領・マニー・モリは曾孫になるがです。

森小弁は土佐藩士だった父:可造と母:加奈の間に生まれ、青年期は自由民権運動に参加し、大阪事件で投獄されていた時期もあった。

出獄後は、同郷の大江卓や後藤象二郎に認められ、活動に参加していたが、いつしか政治不信となり失望してしまう。

この頃、オセアニア・東南アジアの島嶼部への貿易や移民を提唱する南進論が起こり、小弁もその影響で在籍していた東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退し、明治24年(1891年)に小さな南洋貿易商社であった一屋商会に入社。

この年の12月に帆船「天祐丸」に横浜港から乗船し、ポナペ(現在のポンペイ島)を経由し、明治25年(1892年)現在のチューク諸島のウエノ島に到着した(ちなみに小弁と一緒に渡った日本人達が初めてのミクロネシア定住者だった)。

【 引用・参考 】 森小弁 - Wikipedia



そして御存知の方も居ると思うけんど『冒険ダン吉』島田啓三・著と歌謡曲『酋長の娘』は、森小弁をモデルにしたとされるのとして知られちょります。

実は、この墓の主・毛利吉成(毛利勝信)は森小弁の土佐・森氏の先祖になるがです。

墓石左横の石碑にゃ次ぎのように刻まれちょります。

毛利(森)壱岐守吉成公 勝信トモ言ウ
一斉 又ハ 一夢 ト 号ス 茶人ナリ
豊前小倉十五萬石 城主
関ヶ原合戦後 土佐藩山内氏預
慶長十六年五月七日 
高知城 二之ノ丸 ニテ 歿ス



毛利吉成は戦国時代の武将で、豊臣秀吉古参の臣で黄母衣七騎衆の一人じゃったがです。

天正15年(1587)豊前国小倉城主として6万石を与えら、文禄元年(1592)の文禄の役と慶長2年(1597)の慶長の役の朝鮮出兵にも参加しちょります。

関ヶ原の戦いでは、西軍に属して闘っちょりますが、西軍が敗れたため所領を失うがです。

戦後の改易により、肥後の加藤清正に預けられるけんど、慶長6年(1601)土佐の山内一豊の元に預けられる事になるがです。

これは山内一豊の妻・千代が大阪城に人質に取られちょった時、吉成が千代の安全を尽くした事を恩に感じた一豊が、助命嘆願した事より成ったと言う。

そのため徳川家からの預かり人と言えども、土佐では篤く厚遇され、高知城西の丸に住まいを与えられたそうながです。

【 引用・参考 】 『高知県人名事典』 高知新聞社



高知城西ノ丸ちゅうがは天守閣の西側、現在の弓道場「弘徳館」がある場所ながです。

子孫が森氏を名乗るのは、毛利吉成の元の姓が「森」じゃった事により、旧姓に戻した事によると言う。


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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