郡頭神社 - 延喜式神明帳の「古保里都神社」名の意味するものは?

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[ 高知県高知市鴨部上町 ]


郡頭神社の読みは”「こおりず(延喜式神明帳では”古保里都=コホリツノ”神社とある)」と読み、俗に「ぐんとう」神社とも言うがです。

創建は不詳じゃけんど、由緒にゃ『続日本紀』に記載されちょるとありますねー。

『続日本紀』ちゅがは、平安時代初期の延暦16年(797)に菅野真道が編纂完成した勅撰史書で『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる書物ながです。

内容は文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)まで95年間の歴史を扱った歴史資料ながですが、その中に記載されちゅがでして、賀茂氏一族の支配地に創建されちゅう由緒あるお宮さんながです。

現在の地名「鴨部」も「賀茂」から来ちょるがです。

残念ながら昭和56年に火災で消失し、現在はコンクリート造りになっちょりますが、昔は風格ある木造社殿で樹木に覆われた鎮守の森じゃったとか・・・・・。

郡頭神社

御祭神:大國主神

郡頭神社

由 緒

延喜式巻第十(神祇十)神名下(南海道神)土佐国廿一坐の一つである。

「続日本紀」神護景雲二年十一月戌子の条に「土佐国土佐郡人神依田公名代等四十一人賜姓賀茂」とあり、「新撰姓氏禄」に「鴨部祝賀茂朝臣同祖大國主神後也」とあることからも賀茂氏一族の当地に於ける繁栄と、大國主神を奉斎し崇敬したことがうかがわれる。

延喜式内社であった当社は、明治五年郷社に列し、昭和二十一年神社制度の変革により神社本庁に所属し、仝年五月十七日宗教法人となった。

昭和五十六年五月二十七日、御社殿及び社務所が炎上したが、ご神体間近まで燃え迫った炎は自然に消え御神体は御安泰であった。

更に、御神体に関する不思議な霊威はこれにとどまらず、社務所神殿に安置された御分霊も、あます所なく焼け落ちた廃墟に無疵で御安泰、仮殿に遷座すべく奉仕した神職共あまりの神威の高さに慄然とした。

昭和五十八年より一年有半を経過した工事により、本殿、弊拝殿、社務所、神庫、境内諸設備等を再建新設した。



此処から、何時ものオンちゃんの与太咄を・・・。

古代の鴨部地区は、奈良・東大寺の支配下に置かれちょったそうです。

『東南院文書』によると、七五二年に土佐郡鴨部郷五十戸、吾川郡大野郷(現伊野町、春野町辺り)五十戸を東大寺の封戸(ふこ)とするとある。

【 参考・引用 】 『東大寺と土佐』 高知市広報「あかるいまち」2003年3月号


「郡頭」の地名は、高知以外にもあり、読みに関して諸説あるようじゃけんど、百済系外来語の「郡(コホリ)」と、和語「頭(「ツ」が「ヅ」になり「ズ」になったか)」の合体した言葉で、「コホリツがコオリズ」になったがじゃと思うがです。

今でも「郡」を「こおり」とも読むろー。

「土佐の国府」が現在の県庁としたら市町村役場に当たる当時の郡の支所「郡頭」が、ここら周辺にあったがじゃろー。

それと、もう一つ考えられるがは、土佐の「国府の津(港)」じゃのうて、こじつけじゃけんど「国府に渡る津(港)」を意味した【国府津】も意味しちゅうがじゃないろーかとも思うちょります。

と言うのは、古代の浦戸湾は、「郡頭神社」や「朝倉神社」それに「鵜来巣」辺りまでは海じゃったがですき。

鵜来巣山 - 斉明天皇の時代にゃ、すぐ近くまで海じゃった 2012-12-10

ですき、浦戸湾の西側に居た賀茂氏や役人や豪族らが、国府に行ったり来たりするのに此処ら周辺から船出しよったがじゃないかと・・・。

この場合の国府は、勿論、紀貫之も来ちょった南国市の国分寺周辺を指すがです・・・。

もうひとつ与太咄を。

延喜式神明帳にある「古保里都(コホリツノ)神社」と言う名も意味深ですき。

保(ほ/ほう)は、古代から中世の日本に存在した地域行政の単位で、時代・地域によって異なる意味で用いられた。

古代律令制における「保」」:5戸を単位としたことから、五保(ごほ/ごほう)とも称し、5戸をまとめて保という。

「里」も、律令制の行政区画の一つで大化の改新(646)で50戸が1里と定められ、715年郷里制の施行で郷と改称。


そのまま我流で読んだら「古(いにしえ)の時代、大きな集落の都」があった場所に創建された神社のようにも読める。

郡頭神社が記されちゅう『続日本紀』が、文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)のお話しだとしたら、ここで考えられる古(いにしえ)とは文武天皇元年(697)よりも以前の事になるねー。

郡頭神社

・・・その歴史はつまびらかではなく、往古は一宮(いちのみや)である高賀茂神社(土佐神社)に次ぐ崇拝を受け、祭儀も盛大を極めたと伝えるのみである。

【 参考・引用 】 『高知県の地名 日本歴史地名大系40』 平凡社・刊


土佐之国二宮は「小村神社」もしくは「朝倉神社」とされちょりますが、それよりも崇拝を受けた訳はと考えると、土佐神社の祭神・高賀茂神が賀茂氏に与えた都があった場所じゃった。

と言うか、土佐一之宮を祀り強大な権力を持っちょった賀茂氏の勢力圏の中にあった事を表す名前では・・・。

土佐神社の御祭神は一言主神じゃけんど、この神さんは「国譲り神話」で有名な事代主神と同一神であるともされちょります。

その 一言主神(事代主命)は、スサノオの子とも末裔とも言われちゅう大国主神の子と言う説もあるがよ。

最初の方にも記述しちゅうけんど、この郡頭神社の御祭神は誰じゃったぜよ・・・。

「大国主神」じゃろ。

つまり「郡頭神社」が父の大国主神で、「土佐神社」は子の一言主神(事代主命)が祀られちゅうがですき、当然、土佐之国二宮より力関係は強かった事にならんかねー。

そう考えると、すぐ近くにある土佐之国二宮とも言われる朝倉神社の御祭神・天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)にも繋がるがよ。

この朝倉神社は斉明天皇が崩御した地・御霊を宿す地で、その朝倉神社の御神体は背後の「赤鬼山」と言う神奈備ながです。

神奈備 - 朝倉神社 2008-11-21
土佐国二宮 - 朝倉神社 2008-11-1

『日本書紀』の”斎明天皇”の条より

天皇(斎明天皇)が朝倉の宮に移られた時、朝倉の社の丸木を切ってこの宮を建てたところ、雷神が怒って御殿を壊した。

宮殿内にも鬼火があらわれ、多くの者が病で死んで、天皇が崩御された時も、朝倉山の上に鬼があらわれ大笠を着て喪の儀式を覗いていた・・・。



と言う事は、斎明天皇は「鬼」と呼ばれた人たちと、何がしかの繋がりがあった事にもなる。

じゃー、「鬼」とは。

天皇家は、神を祭り崇めた訳じゃし、実在しない神話の中の神々じゃないろうか・・・。

鬼が”オニ”と読まされるようになったのは平安朝以降で、それまで鬼は”モノ”・”シコ”といい習わされていた。

【 参考・引用 】 『消された王権・物部氏の謎』 関 裕二・著


当時の人達の鬼の概念は、今日我々が想像する鬼とは実態が違う。

また、この中で「ヤマト最大の聖地・三輪山の神は、蛇とも雷とも言われ、大物主神(大国主神)と同体され、三輪山の雷神・大物主神は鬼であったことになる。」とも記載されちょります。

そうだとするとヤマト朝廷は「大物主神(大国主神)=ヤマト朝廷以前の本来の神々」を一番恐れて、崇め奉ったことになる。

じゃき、朝倉神社に祀られる斎明天皇は、御神体の赤鬼山(大物主神=大国主神)に押さえつけられちゅう訳になる。

そうすると大物主神(大国主神)が鬼なら、父もしくは先祖となるスサノオも鬼になるがです。

神話じゃと乱暴なスサノオは高天原を追放され国津神と同化して出雲を建国する。

高知市近郊の人じゃったら地理的に分かると思うけんど、高知市の東の南国市との境にゃ高天ヶ原(山)がある。

其処を中心に考えて南にスサノオを祭る「剣尾神社」があり、西に子もしくは子孫とされる大物主神(大国主神)を祀る「郡頭神社」、北に大物主神(大国主神)の子・一言主神をを祀る「土佐神社」がある。

さらに東にゃ石舟伝説があり地元じゃ石舟様として祀られちゅう「天忍穂別神社(あめのおしほわけじんじゃ)」があるがです。



剣尾神社は土佐湾に沈んだ黒田郷から遷座した可能性も無いとはいえん事や、土佐はこれまでの大地震で地盤の隆起や沈下を繰り返しちょる事もあり多少地盤が動いちゅう事も考慮して、4つの神社を線で結んでみると多少誤差はあるものの東西・南北の交差するのが凡そ『高天ヶ原』周辺になるがです。

これは偶然やろーか?

そうそう「天忍穂別神社(あめのおしほわけじんじゃ)」の事を説明せにゃーいかんねー。

此処は、物部氏によって祀られた神社だという。

そんで「天忍穂別神」の御祭神は天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)と言うがです。

『古事記』では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、勾玉の持ち主であるアマテラスの子としている。

高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。

タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

【 参考・引用 】 アメノオシホミミ - Wikipedia


『日本書紀』じゃスサノオは天照大神(アマテラス)の弟になりますき、天忍穂別神は甥っ子になるがです。

昔天照大神のお孫様で饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という神様が、石舟に乗り大空を天かり給 い、山川のスミガサコの山の峰にお着きになりました。

饒速日命は、まず、河内の国のある山にお降りに なり、それから大和の国の桃尾山の麓におとどまり になって、やがて父神の天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)を慕って、土佐の国へお着きになり ました。

土佐へ初めてお降りになったのは、物部川 下流の上岡山(野市)で、それから富家村に入られ 西川村・長谷の小村・峠の船戸・末延の水船・山川 の舟谷を経て、今のスミガサコのお社にお着きにな ったといいます・・・・・。

神社の由来-境内案内板より-



天孫降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が父・天忍穂別神を追って土佐に来たとある場所じゃき、相殿で饒速日尊も祀られちゅうがです。

それに天孫降臨で最初に降り立った場所は河内の国のある山とあるけんど、これもこじつけで言うと此処が最終的にゃ天孫降臨の場所とも言えんかよ。

「おまん頭がおかしいがと違う」と言われそうじゃけんど、まあ妄想ですきにもう一寸御付合いを。

さらには、地名等などから見ても、東の勢力圏は「物部氏」、中央を「賀茂氏」、西に「曽我氏」が居たと考えられがです。

それに、浦戸湾に浮かぶ玉島にゃ『日本書記』に卑弥呼でじゃないかと思われるような記述のある神功皇后が巡幸の際に休憩のため上陸した島じゃと言う伝説もあり、それに斎明天皇と・・・。

じゃー「出雲は何処じゃ」と言われると、もしかしたら『日本書紀』の天武天皇十三年十月十四に起こった「白鳳大地震」で広大な土佐の地が海没した伝承話にある「黒田郷」にあったかも知れんぜよ。

琴平神社 - 684年の白鳳大地震で沈んだ黒崎之宮を再建・遷座 2011-06-17

それにしても、こじゃんと古代国家に関わる要素が揃ちゅうがよ。

そんで古くから土佐にゃ「土佐邪馬台国説」もあるくらいでして、まあオンちゃんは邪馬台国とは思うちゃーせんけんど、ヤマトが建国される以前に、何がしかの強大な権力国家があったと考えちょります。

まあ与太咄が長うなったけんど、実在したとされ祀られる土佐之国二宮・朝倉神社より、神々の一人・大国主神を祀る「郡頭神社」の方が土佐神社に次ぐ力関係があったのは、こじ付けかもしれんけんど、このような事が想像されるがよ。

そうした力関係を造ったのは賀茂氏になり、一言主神と雄略天皇との関係も、一言主神は土佐の豪族で雄略天皇はヤマト朝廷を築いた侵攻勢力じゃったがじゃと思いますが・・・。

遺憾遺憾、これ以上書くと尻滅裂になりそうじゃき、止めちょきます。

剱尾神社 - 創建は500年以上も古く祭神はスサノウ(説) 2011-06-23
土佐国二宮 - 朝倉神社 2008-11-19

兎に角、土佐は面白い土地で、想像したらと言うか妄想の類じゃけんど”こじゃんと”ロマンがありますろー。


考古学者や歴史学者からしたら「デタラメ書くな」とお叱りを受けるかも知れんけんど、あくまでもオンちゃんの与太咄でした。


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