松熊神社 - 祭神は大高坂城城主・大高坂松王丸を祀る

松熊神社

[ 高知県高知市西久万 ]


御祭神は大高坂松熊大神。

此処が、一寸前の「松尾神社」の記事に関連する、三代目の大高坂城(現・高知城)城主・大高坂松王丸を祭る、全国で此処だけ(当然じゃけんど)の松熊神社ながです。

松尾神社 - 大高坂城主「松王丸」が訛って「松尾神社」となったとも・・・ 2013-12-21

松熊神社

松熊神社略記

松熊神社は大高坂松熊大神を鎮祭する日本唯一の神社で御祭神は鎌倉時代から土佐中部に割拠し代々大高坂城主であった大高坂氏累代の最後の城主であり、戦国末期苦難の御生涯に庶民の安堵を念じつつ神界に昇られたご神霊であります。
御鎮座地は御祭神の御墓所で西久万鐘突堂と称せられております。
御祭神御昇神の後此の地に鎮めました処霊威忽ち現れ普く諸人の病災苦難癇気を除かむとの神慮を畏み松熊大明神と尊崇し、社殿を造営して祭祀を営み御城奥より毎度祈願の事有と明細帳にも記されております。

昭和二十一年には高知市役所構内に鎮座の大高坂神社(御祭神の祖)を合祭致しました。
古来小児のかんき夜泣を伏せ息災生育の守護神として又諸病諸災除の神徳著しい神社であります。



大高坂松王丸は、土佐南朝の臣じゃった武将でながです。

ちょっと簡単に南北朝の争いついて・・・。

始まりは、鎌倉時代寛元4年(1246)に後嵯峨天皇の退位後に皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂してしまい、鎌倉幕府の仲介で双方が交互に皇位につく事に決まるがですが、元弘3年/正慶2年(1333)に大覚寺統の後醍醐天皇が諸国の武士に討幕の綸旨を発し、これに応えた足利尊氏や新田義貞らによって鎌倉幕府は滅び、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇の政治がはじまるがです。

けんど、鎌倉幕府を倒した武将たちに対する恩賞の不公平により武士階級は天皇家から離反して行って、足利尊氏の下に従うようになって行ったがです。

そこで、後醍醐天皇は、足利尊氏の討伐令を出すがです。

此れに従ったのが新田義貞・北畠顕家・楠木正成たちながです。

最初は、後醍醐天皇側が優勢じゃったけんど、新田義貞が箱根・竹ノ下の戦いで敗走し、延元元年/建武3年(1336)には楠木正成が湊川の戦いで敗れ自害した事により事実上の武家側の勝利となり、後醍醐天皇は天皇家の三種の神器を持明院統の光明天皇に渡し、持明院統の天皇が誕生するがです。

敗れた後醍醐天皇は京都を脱出して奈良吉野に逃れ、光明天皇に渡した三種の神器は偽物で正統な天皇家は自分の方だとして南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など諸国に自らの皇子を奉じさせ、地方の豪族を見方に付けて行くがです。

その一人が、土佐では大高坂松王丸ながです。

延元3年/建武5年(1338)新田義貞も敗退した越前国藤島で北朝方と交戦中に討死しちょります。

同じ年、土佐には後醍醐天皇の皇子・花園宮満良親王が来て、大高坂松王丸も南朝のために奔走しますが、興国2年(1341)大高坂城は陥落し討死し、花園宮満良親王は西国に逃げ延びた事で、土佐の南朝は滅んだがです。

吉野(南北)朝廷時代古戦場跡 2009-08-21

この時、花園宮満良親王が陣を敷いたのが潮江山(筆山)だったがです。

潮江城址 - 本山氏を破った長宗我部軍の手に落ち森孝頼が城主に 2013-12-16

ついでのお話ながですが、筆山にある天王墓地の一角に石碑が建っちょり、その裏面に「史跡」と刻まれ大高坂松王丸や花園宮満良親王の事も刻まれちょります。

筆山天皇墓地石碑

建てたのは嫡統○○○○とありますき、大覚寺統・後醍醐天皇の直系の血筋の意味になりますが、オンちゃんには石碑の由来が判らんがですき、あえて名前は伏せちょる次第で、本来記事にするつもりもなかったがですが話の流れでこんな石碑があったと言うお話だけにしちょきます・・・。



余談じゃけんど最後にチックと幕末の尊王攘夷に繋がるお話を・・・。

南朝方が敗れて、正統な天皇は北朝側となると足利尊氏が室町幕府の初代征夷大将軍となり、権力を握り足利氏の時代が始まるがです。

しかし、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学によって、皇統の正統性は後醍醐天皇側だと言う事になってから、北朝に見方して後醍醐天皇を京都から追放した足利尊氏は逆賊(朝敵)となるがです。

この尊王思想が、土佐では武市瑞山が土佐勤王党を結党し、坂本龍馬や多くの若者が尊王攘夷の名の元に維新の夜明けを見ずに散って行った事にも繋がるがです。


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