絶海和尚座禅の岩 - 同郷の義堂周信と共に「五山文学の双璧」の一人

絶海和尚座禅岩

[ 高知県高知市吸江 ]


場所は、以前御紹介しちょります、明治13年以前まで土佐神社の祭礼の時の御神幸の御旅所じゃった土佐神社離宮と同じ場所。

その土佐神社離宮奥の本殿に向かって右側、道路傍に大きな岩があり、其の傍に「絶海和尚座禅の岩」と刻まれた石碑が建っちょります。

この絶海中津(ぜっかい ちゅうしん)と言うお坊さんは、土佐が生んだ同郷の義堂周信(ぎどうしゅうしん)と共に、日本の「五山文学の双璧」と言われちゅう有名な人ながです。

五山文学とは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて京都五山(別格上位の南禅寺に続き、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)と鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)の禅宗寺院の禅僧達によって行われた漢文学を言うがじゃと・・・。


絶海中津が生まれたがは、建武元年(1334)じゃき、鎌倉時代の終わり後醍醐天皇の時代なが。

土佐国高岡郡津野(現・高知県高岡郡津野町)の津野一族に生まれちょります。

僧門に入った時には、貞和4年[北朝年号]/正平3年[南朝年号](1348年)で日本の歴史の中で天皇家が南朝北朝の2つに分裂した南北朝時代(室町時代)ながです。

14歳位で京都の天竜寺に入り、観応2年/正平6年(1351)に師匠であった夢窓疎石が享年76歳で死去するまで、その側に仕え教えを受けたそうながです。

応安元年/正平23年(1368)明に渡海し高僧らと出会い教えを受け、洪武9年[明暦](1376)には明の太祖・洪武帝(朱元璋)に謁見を許されたたそうです。

洪武11年[明暦](1378)明での約十年の修行をして日本に帰国した事で、政治家や武家達から、師匠であった夢窓疎石と同じくらい一目を置かれる存在として見なされるようになったと言う。

永徳3年/弘和3年(1383)室町幕府(足利幕府)第3代征夷大将軍・足利義満の命より上洛を命じられ、鹿苑院(現・同志社大学今出川キャンパスの敷地の一部)を創建し住持として赴任するがですが、次第に足利義満と対立し、至徳元年/元中元年(1384))摂津に退去し、その後有馬温泉にある牛隠庵に逃れて、細川頼之の招聘を受けて讃岐に渡り宝海寺を開いちょります。

そいて、土佐に師匠・夢窓疎石が開いたの吸江庵を再興しちょるがです。

吸江庵は、坂本龍馬が土佐藩とライフル千丁の件で会談した場所じゃねー。

夢窓疎石が土佐に来たがは文保2年(1318)の事で、鎌倉時代末期の鎌倉幕府第14代執権・北条高時の母・覚海尼による鎌倉への招請から逃れるために四国に渡り、五台山の山麓に結んだ草庵が吸江庵ながでして、その後、足利尊氏の政治顧問に就いたことによって室町幕府の庇護の下に隆盛し、海南の名刹と呼ばれたがです。

「絶海和尚座禅の岩」の謂れは、絶海中津が吸江庵を再興した頃に、この大岩の上で座禅を組んで修行したがでしょうか・・・。

絶海和尚座禅岩

至徳3年/元中3年(1386)足利義満に許され再びの上洛し、等持寺に入り、明徳2年/元中8年(1391)北山等持院、翌年、相国寺住持、応永元年(1394年)に再び等持院に再び戻っちょります。

応永元年9月に相国寺が焼失すると、その復旧に努め、その功績から応永4年(1397)再び相国寺の住持として再任されるが、翌年辞して鹿苑院院主となり、さらに僧録をも兼務し鹿苑僧録として五山や臨済宗寺院の統括を行ったと言う。

応永6年(1399)の応永の乱では、足利義満に反旗を翻した大内義弘の陣へ義満の命を受けて説得に赴いている。

応永11年(1404)辞して隠退し、応永12年(1405)享年72歳で没。

【 参考・引用 】  絶海中津 - Wikipedia




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