五十嵐文吉 - 武市瑞山は師と慕い、投獄後の前後処理を託される

五十嵐文吉墓

[ 高知県高知市薊野・真宗寺山 ]


文化2年(1805)土佐藩士白札格・五十嵐又五郎の長男として生まれ、文吉は通称で名は敬之(たかゆき)と言うがです。

温厚で古今の歴史に通じ朱子学を修め文武にすぐれ時勢に通じた人じゃったそうで、土佐勤王党盟主・武市瑞山も文吉を師と仰ぎ、土佐勤王党同志らも老輩と慕ったそうながです。

文久2年(1862)吉田東洋暗殺後は、小南五郎衛門、平井善之丞らと藩政に加わり、徒目付(隠密・探索役を兼ねる役職)となる。

藩主上洛に当たっては京に上り、武市瑞山らと共に、他藩応接役として活躍し、同年秋の勅使下向にも随従して江戸に出ちょります。

文久3年(1863)土佐勤王党への弾圧が始まり、武市瑞山も投獄されるがですが、藩吏を務めながら釈放の為の嘆願をしたり、獄中の瑞山から後事を託され同志の前後処理にも尽力する。
 
武市瑞山切腹の様子を、介錯人一人・島村寿太郎から聞き取り『五十嵐文吉手記』を残しちょります。

明治14年(1881) 77歳で没。

右石碑は、「贈従四位 故五十嵐文吉」と刻まれた碑で、大正5年 育子敬之建とある。

この敬之とは、五十嵐文吉の長男・五十嵐幾之助(文吉の名・敬之を受継ぐ)の事で、ちなみに「贈従四位」の碑を建てた翌年大正6年(1917)に81歳で満てちょります。

【 引用・参考 】 
『高知県人名事典』 高知新聞社
『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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