由比直枝 - 土佐藩船「夕顔丸」の船長で龍馬とも面識がある

由比直枝(畦三郎)墓

[ 高知県高知市筆山 ]


慶応3年(1867)6月、長崎から京に上洛途中の船上で坂本龍馬が大政奉還論を進言するため土佐藩参政・後藤象二郎に口頭で提示し海援隊士・長岡謙吉が書きとめた物が「船中八策」ですが、この時乗船した土佐藩船「夕顔丸」の船長が由比直枝ながです。

また慶応3年(1867)7月6日、長崎の丸山でイギリス軍艦イカルス号の乗組員が何者かに惨殺された時、犯人は海援隊士じゃないかと土佐藩に嫌疑がかかるがですが、この事件で、須崎湾に英艦・バジリスク号や幕府軍艦・回天丸、土佐藩軍艦・夕顔丸と空蝉丸の薩摩藩船・三邦丸が集結して詮議が行われたがですが、この時、兵庫港から薩摩藩船・三邦丸で駆けつけた坂本龍馬は「夕顔丸」に乗り移り潜んじょりました。

と言うのも、この時はまだ脱藩の身、公には姿を現すわけには遺憾かったがですき、この時も「夕顔丸」船長・由比直枝に匿(かくま)ってもろうちょったがです。

事件が起きた数時間後の未明に、長崎から土佐の帆船と汽船が相次いで出帆した事から、土佐藩に嫌疑がかかったそうで、須崎湾にゃ犯人探しのためイギリス公使パークスや幕府要人らが大挙して押し寄せた訳じゃけんど、結局、須崎湾での詮議でも土佐人が犯人だと言う証拠もなく、迷宮入りになり犯人探索は終わるがです。

因みに、事件の詳細が明らかになったのは、明治元年になってからの事で、事件の犯人は筑前藩士・金子才吉で事件後に自刃したがですが筑前藩が事件に関わらぬように秘匿しちょったがです。

発覚後、被害者遺族に見舞金が支払われ、筑前藩士・金子才吉と同道していた他6名の者が禁錮刑に処せられたそうながです。

由比直枝は天保5年(1834)に土佐藩士・山田助之丞の三男に生まれ、桝形(現・高知市升形)の土佐藩士・由比猪内の娘を娶り、養子となっちょります。

初名は睦三郎ですが、司馬遼太郎の『竜馬はゆく』にゃ「畦三郎(けいさぶろう)」として登場しちょります。

幕末にゃ、土佐藩の留学生として断髪帯刀で英国に渡り、その後は、開成館軍艦局の教授や局長を務め、明治9年(1876)高知県最初の銀行・第七国立銀行の初代頭取を務め、旧藩士中の人格者として実業界でも重んじられちょります。

坂本龍馬の甥で実家・坂本家6代目を継いだ坂本直寛が北海道開拓のために創設した「北光社」の第2代社長なども努めちょります。

明治44年(1911) 77歳でみてちょります。

【 引用・参考 】 『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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