大脇順若の建てた碑 - 山内容堂の密命で三条実美と接触した人

大脇順若の建てた碑

[ 高知県高知市天神町・潮江天満宮 ]


潮江天満宮楼門脇に土佐藩士じゃった大脇順若(おおわき まさより)の奉納した石碑があり、仔細は判らんけんど明治17年に建てられちょります。

大脇順若の建てた碑

坂本龍馬や中岡慎太郎は知っちょっても、大脇順若(おおわき まさより)って誰?、と言う人が多いですろー。

かく言うオンちゃんも、その一人でした・・・。

大脇順若は文政8年(1826)高知城下大川淵(現・高知市)の土佐藩士・大脇弥八郎の長男として生まれ、家禄は小姓格から馬廻格のち中老格となる。

安政5年(1858)江戸在勤中、時の江戸幕府大老・井伊直弼や老中間部詮勝らが、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した「日米通商条約勅許問題」や、13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため次の将軍を誰にするかと言う「将軍継嗣問題」が起こるがです。

この時、土佐藩第15代藩主・山内豊信(やまうち とよしげ)の密命を受け大橋渡之助の変名で京都に潜入し、三条実万と接触し山内豊信の意を伝えると共に、朝廷の動向を探る等の活躍をしちょります。

余談ながら、三条実万(さんじょう さねつむ)の、正室は土佐藩第10代藩主・山内豊策の娘・眉寿姫じゃき、土佐藩との繋がりがあり、子の三条実美は文久3年(1863)の中川宮ら公武合体派の皇族・公卿と薩摩藩・会津藩らが起こしたクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ落ち延びた七卿の一人で、その後、福岡藩へ預けられ太宰府へ幽閉生活を送るがです。

その間、土佐を脱藩した勤王の志士らが護衛に当たったり、坂本龍馬も幽閉先に訪ねたりしちょります。

本題に戻って、井伊直弼は大老の地位を利用し政敵を排除し14代将軍に家茂を決めたりした事が引き金となって、「安政の大獄」が起こるがです。

山内豊信は幕府の決定に憤慨し、安政6年(1859)2月、隠居願いを幕府に提出し、同年10月島津斉昭・松平春嶽・伊達宗城らと共に幕府より謹慎の命が下ったがです。

山内豊信は、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬と共に「幕末の四賢侯」と称された一人で、隠居後の名前の方が通りが早い「山内容堂」その人ながです。

その後、大脇順若は幡多郡奉行など諸職を歴任し、慶応4年(1868)の戊辰戦争にゃ仕置役として兵站部門(戦闘部隊の人員・兵器・食糧などの 前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる後方支援)を担当し、その後の知行扶持削減も断行し経済面でも能力を発揮した。

明治10年(1877)第七国立銀行の設立と共に取締役になっちょります。

明治38年(1905) 81歳で満てちょります。

【 引用・参考 】 『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊


「北光社設立と推移」~北見市史より(昭和56年)に 「・・・現地踏査を終え帰国した沢本楠弥等の報告に基づき、同志岡本健吉・傍土定治・西原清東・大脇順若・由比直枝・武内羊之助・小嶋安馬・坂本直寛等と協議の結果、合資組織の北光社組合を結成し、北海道に大農場を開設することを計画した。・・・」とあり、北海道北見の地に「北光社農場」設立にも関与しちょりますねー。

北光社移民団出航の地 - ”坂本龍馬”の甥、「坂本直寛」 2009-07-08


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