依岡権吉 - 土佐勤王党に31番目に加盟

依岡権吉墓

[ 高知県高知市筆山 ]


依岡珎麿の妻は、野根山殉難二十三烈士の一人・千屋熊太郎 の妹・富士さんながです。

千屋熊太郎と千屋寅之助(菅野覚兵衛)とは義理の従兄弟同士になりますき、間接的ながらも千屋家の富士さんを介して坂本龍馬と依岡珎麿も姻戚関係になるがですねー。

依岡珎麿は、天保13年(1842)に高知城下に依岡徳吾の嫡男として生まれ、名は弘穀、通称・権吉と言い、珎麿は維新後の名前ながです。

学問は儒学を奥宮慥斎、国学は徳永千規に学び、剣術を武市瑞山に師事しちょります。

文久2年(1862)土佐勤王党に31番目に加盟し、五十人組にも加わり京都残留組となり、国事に奔走しちょります。

一度、土佐に戻るがですが再び上京し、翌文久3年(1863)1月、曽和伝左衛門と十津川に遊説し、2月に吉村虎太郎の挙兵計画を時期尚早と説く。

土佐勤王党に対する獄が始まり、武市瑞山が入獄すると牢番となり牢内外との連絡係を務めちょります。

武市瑞山が獄に繋がれた事を知った中岡慎太郎が秘密裏に十佐に戻って来た時、慎太郎の書簡を武市瑞山に届けたのも彼ですが、そうした行動を後藤象二郎に見付かり免職になるがです。

維新後は明治4年(1871)松山へ英語教師として赴き、明治5年(1872)高知県学務課長となり、晩年は和歌・謠曲を嗜み自適した。

大正12年 82歳でみてちょります。

【 引用・参考 】

『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊
『土佐の墓』山本泰三・著




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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