神徳日新の碑 - 題字は田中光顕、最晩年の書

神徳日新の碑

[ 高知県高知市天神町・潮江天満宮 ]


高知市内の鏡川南岸にある潮江天満宮楼門傍に、「神徳日新」と刻まれた石碑がる。

碑の由来等の詳しい事は判らんけんど、神徳とは「御神徳(神の恵み)」ですき、「日新たに神の恵みを得る」と言う意味じゃと思いますが・・・。

神徳日新の碑

その左下に「光顕」とある。

この石碑の題字を書いたのは、元・土佐勤王党員で陸援隊士でもあった田中光顕ながですねー。

神徳日新の碑

この石碑が建てられたのは「紀元二千六百年」とありますき、昭和15年(1940)に皇紀2600年を祝して、潮江天満宮に寄進した記念に建てられちゅうがじゃと思います。

ただこの「紀元二千六百年」にあたる昭和15年(1940)の前年の3月28日に田中光顕は満95歳で天寿をまっとうしちょります。

この碑を建てる計画が数年前からあり、事前に題字の依頼をしちょったがでしょうねー。

そう言う意味で、田中光顕の最晩年に書かれた文字になると、記事のタイトルに書いたがです。

【 参考・引用 】 最晩年

一生の終わり頃を示す「晩年」の 中でも特に終末に近い時期のこと。
死去する直前の数年程度を指すことが多い。


神徳日新の碑

石碑の裏にゃ寄進した人らーの名が刻まれちょりますが、その中に「山内豊景」と言う名がある。

この山内豊景と言う人は、土佐藩第16代藩主で最後の藩主となった山内豊範の長男ながです。

えっ!「土佐藩の最後の藩主は山内容堂じゃないが?」と、幕末の土佐藩の出来事をひっくり返して見たら、そう思う人も居るかもねー。

山内容堂誕生の地 2008-03-29

山内豊範は第12代藩主・山内豊資の11男として生まれ、嘉永元年(1848)に兄の豊熈(第13代藩主)、豊惇(第14代藩主)が相次いで死去したため後継者と目されたけんど、この時まだ僅か3歳じゃった。

そんで家督は分家出身の山内豊信(容堂)が継承し土佐藩15代藩主となるがですが、安政6年(1859)の「安政の大獄」で隠居処分となったため、晴れて山内豊範が家督を継承し土佐藩16代藩主となるがです。

けんど僅か数年後の文久2年(1862)に山内豊信(容堂)の隠居が解かれると、藩の実権は山内容堂に握られてしまい、明治維新まで続くがよ。

戊辰戦争じゃ継室が上杉斉憲の娘じゃったため義父・上杉斉憲(米沢藩)に対する官軍の追討に対し赦免に奔走しちょります。

藩主と言っても名目だけの藩主にすぎず、始終「山内容堂」に翻弄させられ続けた人じゃったかも知れませんねー・・・。


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