井原應輔 - 土佐勤王党に132番目に加盟

井原應輔招魂墓

[ 高知県高岡郡佐川町甲 ]


井原應輔(いはら おうすけ)は天保13年(1842)佐川(現・佐川町)の地に、佐川藩家老深尾家家臣・井原衛守の子として生まれ、名を徳道、初めは栄江と言う。

文久2年(1862)土佐勤王党にゃ132番目に血盟加盟し、命により上京。

翌文久3年(1863)4月土佐勤皇党を支援擁護しよった理由で佐川領主・深尾鼎は奉行職を解かれちょったがですが、八月十八日の政変以降、土佐勤王党に対する弾圧が始まると領内の勤王派を守るためか親類預け等の謹慎処分にする。

当然、井原應輔も京での活動に対し咎められ、謹慎処分を受けちょります。

翌元治元年(1864)7月に禁門の変が起こると、8月14日の夜、同郷の浜田辰弥(田中光顕)、那須盛馬(片岡利和)、橋本鉄猪、池大六(山中安敬)らと共に赤土峠に集まり、仁淀川を舟で下り、黒森から土居を抜け大洲領内へ入り長州三田尻へと脱藩して行ったが。

11月大阪に出て、同じく脱藩しちょった千屋金策、島浪間と共に同志を募る目的で 伯耆国(現・鳥取県西伯郡伯耆町)に入り、翌慶応元年(1865)2月備前国の岡元太郎を加え4人で美作国土居の関所を通過しようとした時、悲劇は起こったがです。

柵原町百々の造り酒屋池上文左衛門を訪れ活動資金の融資を求めた所、強請り呼ばわりし侮辱した挙句に、役人に対して強盗として訴えたがです。

その為4人を盗賊と見なし追い詰め、彼らの弁明に全く耳を貸さず死に追いやり、死後も遺体を陵辱されたと言う。

井原応輔 享年24歳。

脱藩して僅か約半年後の事・・・。

この墓は「井原應輔招魂墓」で、斬り落としたかのように無残に2つに割れちょります。

慶応元年(1865)2月尊王派の同志を募るために作州路を遊説中の岡元太郎 (岡山藩)、井原応輔 (土佐藩)、島浪間 (土佐藩)、千屋金策 (土佐藩)の勤皇の志士を大勢の土井村民がリンチにして惨殺した事件。
第一次長州征伐の後、 大阪城を攻略する目的で作州路において同志を募るたびに出た四人が久米郡吉岡村の慈教院の住職の紹介状を持参して柵原町百々の造り酒屋池上文左衛門を訪れた。
井原応輔、島浪間、千屋金策が文左衛門に活動資金の融資を求めるが文左衛門は3人を強請り呼ばわりし侮辱した。
激怒した三人に文左衛門の妻が金銭を差し出して詫びたので事は納まったが、3人が立ち去った後文左衛門と息子輝道は自らが謝罪として金銀を渡したのにも関わらず3人を役人に対して強盗として訴えた。
これに対して猟銃や農具を手にした村人たちが四人の志士を強盗と見なし追い詰め、彼らの弁明に全く耳を貸さず、四人を死に追いやり、遺体を陵辱した事件である。
彼らは英田郡土居の宿場の勤皇の庄屋・安東正虎宅に逃れようとしたが村民は竹槍でもって彼らを襲撃した。
逃れる術もないと悟った四人は竹田神社に拝礼し、その後街道に出て松ノ木の根元で岡は切腹、井原と島は刺し違えた。
井原は急所を外れ半日もがき苦しみ介錯を懇願したが、土井村の医師福田静斎以外誰も介抱する者はなかったとされる。
千屋は宿場へ入り、土居村の町方総代武藤太平に対して自分たちへの誤解を晴らそうと試みたが適わず、旅宿の泉屋で遺書を認め自刃せざるを得なかった。
彼らの死後、村民は鳶口で遺体を散々に切り刻み陵辱の限りを尽くし、彼らの遺骸は数日間捨て置かれた。
その後、遺書などにより真相が明らかにされ、世間で住民の残虐性と無慈悲さへの批判が巻き起こった。
当時「西に百々の酒屋がなけりゃ、若い侍殺しゃせぬ」との俗謡が流行ったとされる。
これに対し村民は塚を建てることで批判への対応を試みた。

【 引用・参考 】 四ツ塚様 - Wikipedia




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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