島本仲道 - 土佐勤王党に16番目に加盟

島本仲道墓

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]


島本仲道(審次郎)は天保4年(1833)土佐郡潮江村蛭ヶ谷(現・高知市)の藩士・島本卓次の二男として生まれ、通称・審次郎、維新後に仲道と称し、号は北州。

吉村虎太郎や中岡慎太郎らと共に間崎哲馬に学問を学び、また大井漁隠(おおい ぎょいん)にも学んじょります。

安政5年(1858)江戸に出て安井息軒に入門し、長州藩士・久坂玄瑞らと交流するがです。

土佐に戻んて来て土佐勤王党に16番目に血盟加盟しちょります。

島本仲道墓

碑文にゃ武市半平太の名も刻まれちゅう。

文久3年(1863)9月21日の島本審次郎への出頭命令を皮切りに、次々と同志達に対すり弾圧(土佐勤王党の獄)が始まるがです。

当初は自宅謹慎処分じゃったけんど、翌・慶応元年(1864)山田獄舎に投獄され永牢処分の結審を受けるが。

慶応3年12月9日(1868)江戸幕府を廃絶し、新政府樹立を宣言した政変「王政復古」によって解放され、戊辰戦争にゃ松山討伐の土佐藩兵の監察使として従軍し、軍功を挙げ監察加役に昇進し、上士待遇となっちょります。

維新後は新政府に出仕し、兵部権少丞、地方官を経て司法省へ入り、明治5年(1872)司法大丞、さらに大検事や警保頭を兼ね、司法卿・江藤新平に信頼され、司法制度の改正、新律綱領の制定に尽力しちょります。

山城屋事件や尾去沢銅山事件では西郷隆盛や井上馨ら政府顕官に対して追及の手を緩めず剛直の名を高めたが、明治6年(1873)征韓論に敗れ下野し、土佐に戻んて来ます。

帰国後は立志社の自由民権運動に関わり、明治14年(1881)に自由党顧問となり、明治20年(1887)保安条例にかかり東京退去を命じられ、大磯のちに山梨に転居しちょります。

立志社跡 - 自由民権運動 2009-03-20

明治22年(1889)大日本帝国憲法発布(明治憲法)の恩赦で赦免されたけんど、明治25年(1892)東京で60歳で亡くなっちょります。

【 参考・引用 】 ■ 『高知県人名事典』 高知新聞社



島本仲道墓

墓碑撰文は「竹内綱」と刻まれちょります。

竹内綱は天保10年(1860)は土佐藩家老・山内氏(宿毛領主・伊賀氏)の家臣・竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛(現・高知県宿毛市)に生まれ、目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど主家の財政再建に尽力し、戊辰戦争じゃ兵を率いて北越・奥羽各地を転戦しちょります。

明治・大正期の実業家・政治家で、高知工業学校や秋田鉱山専門学校(秋田大学鉱山学部〔現・工学資源学部〕の前身)の創立に参与しちょりますねー。

第45・48-51代内閣総理大臣を務めた吉田茂は竹内綱の5男になり、第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎は外曾孫になるがです。

【 参考・引用 】 ■ 竹内綱 - Wikipedia

関連記事

  



0 Comments

Leave a comment