土方久元邸跡 - 土佐勤王党に21番目に血盟

土方久元(楠左衛門)邸跡

[ 高知県高知市北秦泉寺 ]


土方久元(ひじかた ひさもと)は天保4年(1833)に土佐藩の用人格の郷士・土方理左衛門の長男として土佐郡秦泉寺村(現・高知市)に生まれ、通称・楠左衛門、変名・南大一郎、維新後に久元と改めちょります。

号を秦山と言う。

土方楠左衛門(土方久元)は、桂浜にある「坂本龍馬彰勲碑」に「東走西奔不顧身 長山薩海住来額 奇勲未奏罹奇禍 遺恨千秋泣鬼神」と坂本龍馬を弔う七言絶句を残しちゅう。

安政4年(1857)江戸へ出て大橋訥庵・若宮壮吉らに学び、文久元年(1861)武市半平太が土佐勤王党を結党すると21番目に血盟加盟しちょります。

文久3年(1863)間崎哲馬と共に、藩庁からの密事用のため京都へ上り探索活動し、三条実見の知遇を得て学習院御用掛となり国事に奔走するが・・・。

しかし同年8月18日京都守護職会津藩と薩摩藩は手を組み、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放した、8月18日の政変(文久の政変)と呼ばれるクーデターが起こるがです。

この時、三条実美や沢宣嘉らの七公卿は京を追放されて長州へ下るがですが、土方楠左衛門は護衛として随行しちょります。

慶応元年(1865)土方楠左衛門は、三条実美の命により中岡慎太郎と共に上京しちょりますが、4月に薩摩藩・吉井幸輔の屋敷で坂本龍馬と時勢を論じ、閏5月下関の白石正一郎宅で黒岩直方と坂本龍馬に再会し、中岡慎太郎と計画しちょった薩長同盟の話を持ちかけちょります。

8月18日の政変と翌元治元年(1864)の禁門の変によって、薩摩と長州は敵対関係になっちょったがですが、坂本龍馬や中岡慎太郎らの斡旋によって、慶応2年(1866)薩摩藩と長州藩は政治的軍事的同盟「薩長同盟」を結ぶがです。

これによって、薩摩は幕府の第二次長州征討には参加せず、以後、薩摩と長州は互いに倒幕に向けて連携を深めて行ったがです。

慶応3年(1867)の王政復古で三条実美が表舞台に復帰し、翌慶応4年(1868)の戊辰戦争じゃ関東観察使(鎮将)として江戸へ赴くがですが、土方楠左衛門は軍監として共に随行し、市政裁判所判事(南町奉行)となり、以後、江戸府判事、江戸鎮台府判事、鎮将府弁事等を歴任しちょります。

明治4年(1867)太政官出仕を命じられ、枢密大事、大内子、大史、明治10年(1873)一等侍補となる。

その後、宮内少輔、内務少輔、元老院議官、宮中顧問官等を歴任し、第1次伊藤内閣じゃ農商務大臣となり、後に宮内大臣になっちょります。

明治17年(1884)に子爵、明治28年(1895)にゃ伯爵になり、大正7年(1918)86歳で満てちょります。

【 参考・引用 】 ■ 『高知県人名事典』 高知新聞社




MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment