千屋家邸跡 - 龍馬の義弟・千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡

千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡

[ 高知県安芸郡芸西村和食 ]


「海援隊」隊士で坂本龍馬の義弟になる千屋寅之助(菅野覚兵衛)の生家跡が、この辺りのようながです。

ちょっと前の記事で書いたけんど、龍馬の死後に土佐に来た「お龍」さんが、坂本家を出た後一年程滞在しちょった場所でもあるがです。

文化10年(1813)千屋宗左衛門が和食の庄屋職に就き、後に長男・半平は半山庄屋(現・高岡郡津野町葉山)になり、和食の二代目庄屋は養子の民五郎が継いじょります。

その民五郎の次男が千屋寅之助(菅野覚兵衛)になるがです。

この家系も、多くの勤王の志士を輩出しちょります。

千屋寅之助(菅野覚兵衛)は海援隊士として活躍し、維新後はアメリカへ白峰駿馬と一緒に留学し帰国後海軍に入り海軍少佐となり、その後は福島県安積郡富久村に入植しちょります。

半山庄屋になった初代・宗左衛門の長男・半平の2人の子も勤王の志士ながです。

次男・菊次郎は土佐勤王党に106番目に加盟し、京都では平井収二郎の借家に同居し国事に奔走しちょります。

脱藩後、三田尻に七卿の衛士として働き、元治元年(1864)に禁門の変には忠勇隊の一員として参加しちょりますが、幕府軍に大敗を喫して天王山まで引き返し、真木和泉ら16名の同志と共に自刃しちょります。

享年28歳。

三男・金策も兄・菊次郎と共に土佐勤王党に108番目に加盟しちょりますが、土佐勤王党への弾圧が始まると元治元年(1864)に脱藩しちょります。

しかし、慶応元年(1865)2月尊王派の同志を募るために岡元太郎 (岡山藩)、井原応輔 (土佐藩)、島浪間 (土佐藩)と共に作州路を遊説中、資金集めの為に柵原町百々の酒造業・池上文佐衛門を訪ねるが強盗呼ばわりされ、土地の百姓に追い詰められ自害しちょります。

享年23歳。

また半山庄屋になった半平の弟・清助の子・熊太郎は奈半利河原で処刑された野根山殉難二十三烈士の一人ながです。

享年21歳。

野根山殉難二十三烈士


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