酒井勝作(山内下総) - 土佐勤王党に協力し保守派政権を作る  

酒井勝作墓

[ 高知県高知市秦泉寺・東秦泉寺山 ]


酒井勝作(さかい しょうさく)は文政2年(1819)土佐藩家老・山内監物佐儀の子として生まれ、名は佐成・勝之助・勝作、旧称・山内下総と言い、天保11年(1840)父の跡を継ぎ、奉行職となる。

安政5年(1858)吉田東洋が参政として藩政に復帰すると、配下の新おこぜ組が政を司り、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行するがです。

文久元年(1861)土佐藩の藩論も、勤王と佐幕に二分するなか意見が合わず辞職するが、国事に尽くすがです

一方、同年武市半平太は土佐勤王党を結成し、藩論を刷新すべく大監察・福岡藤次および大崎健蔵に進言するがですが書生論であると退けられるが。

なおも東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、東洋は「そこもとは浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴されたという。

しかし土佐藩内部にも吉田東洋の改革路線に批判的な守旧派がおった。

武市半平太(瑞山)は次第に守旧派の山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五島内蔵助らと気脈を通じるようになるがです。

武市瑞山は穏当な手段での東洋排斥をと説くがですが、山内民部は「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、吉田東洋暗殺へ事態は加速して行くがです。

この山内民部とは山内豊誉の事で、南邸・山内豊著の七男、つまり吉田東洋を信頼して参政に復帰させた山内容堂の実弟になるがです。

実の兄弟でも、藩論を二分する双方におった立場ながです。

皮肉ですよねー。

そいて運命の文久2年(1862)4月8日夜、吉田東洋は土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺されるです。

暗殺をしたのが土佐勤王党と見た東洋派の藩庁は激怒し、土佐勤王党と一触即発の事態になるがですが、事態を打開すべく山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総(酒井勝作)と謀って混乱に陥った土佐藩の収拾に乗り出し、保守派政権を設立するがです。

話は山内下総(酒井勝作)に戻って、この間、家老職への就任と辞職を2度繰り返すが、吉田東洋の暗殺後に3度目の奉行職に就任し、藩主・山内豊範の上洛に随行、よく補佐し、その後は主に京都にあって朝廷工作や諸藩との折衝などに尽くし、勅使・三条実美の江戸行きには藩侯護衛の任に付いちょります。

薩摩と長州に討幕の密勅が出された直後の慶応4年(1868)1月11日、明治天皇は土佐藩の第16代藩主・山内豊範に、第二次長州征伐に加担した「高松藩や伊予松山藩を征伐すべし」と命令した御沙汰書がでる。

この時の松山征伐の際には、伊予松山警衛総督等の任を果たしたそうです。

明治9年 58歳で亡くなっちょります。


因みに、初代・山内吉佐は豊臣秀頼の馬廻・酒井下総守吉政の子として生まれ、父・吉政は徳川家家臣・酒井家次の子と伝えられちょるそうです。

はじめ、小早川秀秋に仕え、慶長5年(1600)に山内一豊に中老職として1690石で仕え、浦戸城と山内姓を拝領しちょります。

慶長14年(1609)、山内康豊(初代土佐藩主・山内一豊の同母弟)の三女・郷姫と結婚し家老職を務めちょります。

2代・山内豊吉(酒井豊吉)は野中兼山の失脚に関係する人物ながです。

野中兼山邸跡の碑 - 本来の跡地に建てられちゃーせん理由は 2009-11-20

藩主・山内忠義が重病に倒れ、その後を継いだ第3代・山内忠豊に、義父・深尾重昌、その子の因幡重照とともに連名で三箇条の訴書を側近・孕石頼母・生駒木工を通じて提出し、野中兼山を失脚させるきっかけをつくったがです。

山内忠豊は父・山内忠義の命に従って引き続き野中兼山を登用しちょったけんど、忠豊自身は野中兼山のことをあまり快く思うちゃーせんかった事も影響しちゅうと・・・・。

【 参考・引用 】 ■ 『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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