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小倉省助・三省父子の墓 - 小倉三省は藩政初期の重臣で儒学者

小倉省助・三省父子の墓

[ 高知県高知市五台山 ]


小倉省助・三省父子の墓

昭和42年に建てられちゅう碑文の裏にゃ、「小倉省助は錬達した民政により、その子三省は南学の研鑽をもって、ともに兼山(野中兼山)政治に参加し、奇しくも承応3年(1654)相ついで死去し、この地に眠る」と刻まれちょります。

野中兼山邸跡の碑 - 本来の跡地に建てられちゃーせん理由は 2009-11-20
野中婉女宅跡 - 野中兼山の娘 2010-04-22

「南学」は、土佐における朱子学で海南学派とも呼ばれちょります。

室町時代末期(天文年間)に儒者・南村梅軒が土佐で朱子学を講じたことを祖とし、吸江庵の「忍性」、宗安寺の「如渕」、雪蹊寺の「天質」、吉良宣経などに伝えられ、更に天質に学んだ谷時中が江戸時代初期に南学の学風を固めた。

その谷時中の門人に野中兼山・小倉三省・山崎闇斎らがいたが途絶し、山崎闇斎の門弟の浅見絅斎に師事した谷秦山が南学を復興させ、その後は谷家の学問となり朱子学の単なる解釈学ではなく義理名分と実践を重んじた「土佐南学」として、土佐藩学の中心となったがです。

小倉三省墓

小倉三省墓

小倉三省墓

小倉三省は慶長8年(1603)に近江山上(現・滋賀県東近江市山上町)に少助政平の子として生まれ、名は克、字は政実、政義、通称・弥右衛門、号を三省と言う、山内氏の藩政時代初期の重臣で儒学者ながです。

寛永19年(1642)土佐藩第2代藩主・山内忠義に抜擢され、大扈従(主君の身辺に仕えて、諸々の雑用を果たした、小姓ような役目)に列して200石を給わる。

慶安元年(1648)父と並んで仕置役となり、承応元年(1652)父の引退後、その禄を併せて800石となる。

野中兼山の施策に関わる、南学も野中兼山と共に谷時中に学んじょります。

学政一如を標榜(主義・主張などをはっきりと掲げ示すこと)して性温和な三省はよく人心をあつめ、対照的に気性の激しい兼山を助けるところ多きかったと言う。

承応3年(1654)7月15日、52歳で没。

その死は、その年の3月26日に亡くなった父・省助の死を嘆き、病となり死去したと言う。

小倉省助・三省父子の墓

頌徳之碑の題額は、土佐勤王党員でもあった田中光顕の書によるがです。

小倉省助墓

小倉三省の父・省助は天正10年(1582)生まれの近江の人で、山内一豊に仕え、一緒に土佐に従って入国しちょります。

山内一豊墓 2011-02-02 

家老・野中直継(野中兼山は13歳の時、小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・ 市の入婿となり、寛永13年(1636)養父の死後、野中家を継いで奉行にる)の信を得て仕置役を務め、元和の改革を推進した。

承応3年(1654)3月26日、73歳で没。

【 参考・引用 】 ■ 『高知県人名事典』 高知新聞社




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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