眞邊戒作墓 - 京都で中岡慎太郎と会い時勢を話す

眞邊戒作墓

[ 東京都台東区谷中・谷中霊園 ]


真辺正精(まなべ まさよし)は嘉永元年(1848)に生まれ、通称は厳太郎、後の名を真辺戒作と言うがです。

幼少より、今風に言うたらイケメンやったそうです。

安政5年(1858)山内容堂に召し出され、11歳で御付小姓を仰せ付けられ、文久3年(1861)亡父の跡目を継ぎ、石高68石を相続し、真辺家8代目当主となっちょります。

慶応元年(1865)乾退助(板垣退助)に御供して江戸に出、藩命で学問を学び、慶応3年(1867)土佐へ帰藩する途中、京都で中岡慎太郎と会い時勢を話し会たそうです。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、板垣退助の配下の迅衝隊第六番隊長として出征し、のち隊制改編により胡蝶隊第四番隊司令となり、特に下野国安塚の役で大鳥圭介ら率いる賊軍に対して勇猛果敢に戦い負傷するが、続く壬生城攻めでも、弟の真辺哲馬らと励ましあって敵陣の包囲を突破し賊魁の籠もる会津に進撃した。

会津では若松城交戦中、弟の哲馬が敵弾に斃れ戦死するも、武士として取り乱すこと無く敵に立ち向かった。

【 参考・引用 】 真辺正精 - Wikipedia


因みに、記事写真の眞邊戒作墓の右墓石は、以前にも御紹介しちょりますが、土佐勤王党に暗殺された土佐藩参政・吉田東洋の子・吉田正春の墓です。

ロンドン留学から戻り、明治11年(1878)に一度高知に帰郷しちょりますが何が原因かは判らんけんど神経衰弱になり、明治12年(1879)再度上京し、親友じゃった吉田正春を訪ね、同所で自殺したとか・・・。

真邊戒作と吉田正春の墓が、隣り合わせにあるのは、そんな因縁もあるがでしょうかねー。
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