吉田数馬 - 現・小津高校の初代校長を務め坂本龍馬を敬慕した一人

吉田数馬墓

[ 高知県高知市筆山 ]


この「よしだか寿万」と彫られちょる一風変わった墓石は、坂本龍馬を敬慕した明治15年(1882)現・小津高校の初代校長を務め、質実剛健の校風を樹立した「吉田数馬」の墓所ながです。

弘化4年(1847)に生まれちょりますが、父は三里池の人で早くに没する。

土佐藩校「到道館」で学び、戊辰戦争東征に従い新留守居役になった。

明治4年御親兵に編入され上京し陸軍中尉となるが、征韓論政変で下野し土佐に戻っちょります。

明治6年(1873)山地元治・北村重頼らと相談して、旧・土佐藩主・山内豊範に東京日本橋箱崎町の山内家邸内に海南私塾を創立させた。

明治9年(1876)分校として、土佐に現・小津高校の前進となる海南私塾を開き、明治14年(1881)を学校事務総官に谷干城が就任しちょります。

明治15(1882)東京の本校を廃止して土佐の分校に統合の上、「海南学校」と改称し、初代校長に吉田数馬が就任するがです。

教育者として明治43年 64歳で没。

吉田数馬墓

墓石の側面に、生前に吉田数馬が書き残した文章じゃと思う文字が一杯に刻まれちょりますが、風化によって読み取る事が出来んかったけんど、『土佐の墓』より引用させてもらいます。

嗚呼人も死すべき時に死せざれば死にまさる恥ありとかや野夫も本年齢已に六十に達しつくづく往時を回顧すれば所謂死すべき時もありつれど機を誤りて生きながらへ、永らく海南学校のお世話致し居りしも、之亦何の貢献する所もなく、遂に老齢を以て今般御辞退仕る爰に同校出身の諸士は、野夫が年来の勤労を多とし、金員及銅像等を恵与せられ、実に慚愧赤面之至りに候。志かれ共又、折角諸士の野夫之老懐を慰せんとの此の美挙を敢えて御辞退申すも、却って礼にあらざるべしと仍て其の贈与せられたる銅像は、永く家に蔵し、金員は以て野夫夫妻の壽碑を作り、藹然たる諸士の芳情を永く子孫に伝へ度、自ら愚衷を碑面に勒し、之を表する事如此候也。

明治四十年一月
加壽万しるす

【参考・引用】 『土佐の墓』 山本泰三・著


また吉田数馬が、生前の坂本龍馬のことを 回想して弟子に語った記録がある。

少年の時分二三の友人と共に坂本先生に伴われて種崎へ桃見に行った。
其の休憩した掛け茶屋の女は嘗て、坂本先生の家に奉公したものであったが、坂本先生が黒い盲縞の羽織袴を著けて居るのを見て、『坂本の旦那、弥智(やち)がないじゃありませんか。そんな着物を着て』と言いしが、坂本先生は只にやりにやりと笑いながら、何も答もしなかった。
帰途についた時、坂本先生は『今日は下駄が三分で刀が二朱じゃ。滔々たる天下只奢移淫靡を是事としている。世の先覚者は率先して三百年の惰眠を打破せねばならぬ。それで俺は女の注目を惹く様な縞柄の着物は著ぬ』と云った」 

『逸事数節』 吉田数馬先生 川田正澂・著


* 「弥智(やち)がない」とは、土佐弁で「とんでもない」の意味


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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