安岡金馬顕彰碑 - 坂本龍馬の海援隊にも参加

安岡金馬顕彰碑

[ 高知県安芸郡芸西村馬ノ上 ]


安岡金馬も、坂本龍馬とは間接的ながら姻戚関係になるがですねー。

と言うのは、安岡金馬の兄・重房の妻「力」さんは菅野覚兵衛の実妹になり、菅野覚兵衛の妻「起美」は坂本龍馬の妻「お龍」さんの妹ながです。

そうした縁もあったがでしょう、「お龍」さんが横須賀で再婚した時に媒酌の労を取ったはの安岡金馬じゃし、その後も、横須賀に住んじょった「お龍」さんの面倒もよう見よったと言う。

安岡金馬と坂本龍馬の関係

菅野覚兵衛の旧姓は「千屋」ですから、妹・力さんは正しくは「千屋力」と書くべきですが、判りやすくするために「菅野」姓にしちょります。

安岡金馬は天保15年(1844)に土佐郡福井村(現・高知市)に、代々馬ノ上村(現・安芸郡芸西村)で庄屋を務めよった安岡忠郷の二男として生まれ、名を忠綱と言う。

田野学館で中岡慎太郎らとま交わり、文久2年(1862)土佐勤王党にゃ182番目に血盟同志となり、山内容堂を警護すべく組織された五十人組にも加わり江戸に出ちょります。

文久3年(1863)同郷の親類でもある菅野覚兵衛の紹介により勝海舟の門下に入り、坂本龍馬等と航海術を学ぶが・・・。

土佐勤王党への弾圧が始まると勝塾で学びよった土佐藩の塾生にも帰国命令が出るがですが、高松太郎ら多くの同志は脱藩覚悟で留まる。

安岡金馬はいったん土佐に戻んちょったけんど、土佐勤王党への弾圧で自身への身の危険を感じたのか、元治元年(1864)長州に脱藩し、中岡慎太郎や池内蔵太ら多くの脱藩土佐人と共に、禁門の変には忠勇隊として戦かうがです。

慶応2年(1866)再び長州・三田尻の長州海軍へ入り、長州藩の西洋式帆船「庚申丸」で活躍し、慶応3年(1867)坂本龍馬の海援隊に加わり、海援隊所属で薩摩藩の西洋帆船「大極丸」に乗り活躍する。

慶応3年(1867)京都・近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された際にゃ、高松太郎・長岡謙吉ら海援隊士らと京都に潜入し、野辺の送りをしちょります。

龍馬の死後は海援隊を離れ、後藤象二郎が薩摩より買い取って土佐商会所有になっちょった順海丸(元・大極丸)の船長となり商業活動を行っちょったけんど、時化(しけ・台風)に遭遇し、難破漂流の末に伊豆で大破したと言う。

明治元年、神戸でスルップ船(小型ボートじゃと思うがですが)を購入し、淀川を上り伏見から河原町まで船で運び、其処から陸路大津に出て琵琶湖に浮かべたそうで、これが西洋型船が琵琶湖に浮かんだ最初じゃそうです。

そして、大津役所に出向き、大津裁判所で湖水判事に任命され、やがて裁判所が廃しされ退官し、神戸に戻るがです。

この時、商業視察をしたいと言うアメリカ人・ワッチを京都に案内した事が、外国人を京都に入れる事を禁じちょった当時の法に触れ、永禁固に処せられ高知で服役するがです。

本来じゃったら重罪で打首もしくは切腹の厳刑じゃったろうけんど、勤王の志士として活躍した事が考慮されたがじゃないかと思うけんど、死罪は免れ土佐に引き渡され永禁錮になっちょります。

明治6年(1873)海軍省から「富士山艦乗被仰付候事」と辞令が出て、横須賀海軍に務めるがです。

明治27年 51歳で没。

安岡金馬顕彰碑

この顕彰碑は、平成6年(1994)に「安岡金馬生誕百五十年・没後百年」を記念して、御子孫によって建てられたもので、『龍馬の手紙』等の著書のある郷土史家・宮地佐一郎先生が碑の題字を書いちょります。

安岡金馬顕彰碑

碑の建っちょる場所は、安岡金馬の先祖の居城じゃった馬ノ上中ノ城跡に近い場所にあるがですが、その事を示す系図が顕彰碑左の略伝の裏に刻まれちょります。

吉良川領主・安岡忠重 - 「馬ノ上中ノ城城主・安岡長門守」 - 初代馬ノ上庄屋・安岡源兵衛- 九代馬ノ上庄屋・安岡忠郷 - 安岡金馬


永禄12年(1569)長宗我部元親と安芸国虎とが戦い、安芸氏が滅びた後、長宗我部軍の吉良川城主一族じゃった安岡長門守が馬ノ上中ノ城の城主となるがです。

関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が敗れ、慶長6年(1601)山内一豊が土佐の国の領主として土佐に入国した後に、安岡源兵衛が初代馬ノ上庄屋となり、その後代々と移動庄屋を務めちょります。

【参考・引用】
■ 『高知県人名事典』 高知新聞社
■ 『海援隊隊士列伝』 土居晴夫・著




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