中岡兼 - 中岡慎太郎の妻

中岡慎太郎家墓

[ 高知県高知市薊野 ]


「丸に綿の花」の家紋に、「中岡家先祖代々之墓」と刻まれちょりますが、これが慶応3年11月15日(1867)京都河原町近江屋井口新助邸において坂本龍馬と共に暗殺された中岡慎太郎先祖の墓所ながです。

中岡慎太郎家墓

裏面にゃ、下記のように刻まれちょります。

明治時代より中岡家の墓所は潮江筆山南側にあり先祖上倉郷庄屋要七夫妻の墓も昭和の初め上倉よりここに改葬してあった
昨昭和47年9月15日県下各地をおそった豪雨の為突然この墓地も流出の為谷と化し只ほどこすすべもなく遭難の諸霊の冥福を祈るのみであった
止むなく他に墓所を探し求め漸くこの地を新に中岡家墓所と定め供養の墓碑を建て先祖代々の霊をまつる

昭和48年 秋   当主 中岡 ○



中岡慎太郎家墓

銘碑
初代 中岡要七夫妻
中岡照久 後妻・衣
中岡慎太郎妻・兼 
中岡照行 妻・幸 後妻・銈


中岡慎太郎の妻・兼は土佐郡領家村(現・高知市鏡)利岡彦次の長女で天保14年に生まれちょります。

中岡慎太郎が生まれたのは、天保9年(1838)に土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)の北川郷の大庄屋・中岡小伝次と後妻ウシの長男として生まれちょりますが、先祖代々移動庄屋を務めよって元々北川村の在じゃないがです。

祖とされる平助は土佐郡領家村(現・高知市鏡)の大庄屋を務め、三代・平助は長岡郡上倉郷庄屋(現・南国市上倉)を務めよったけんど男子がなく廿代町(現・高知市廿代町)庄屋・寺石正道の三男・要七が養子となり4代目となっちゅうがです。

その要七にも男子がなく、廿代町住の寺石久左衛門の弟が養子なって5代目・要七を襲名し、吾川郡西畑村(現・高知市春野町)や吾川郡ハ田村(現・高知県吾川郡いの町八田)の庄屋を務め、文政7年(1824)北川郷大庄屋に任命されるけんど、天保7年(1836)6月に郷士・北川助七郎に殺害され、一時、大庄屋役を断絶するがです。

天保7年(1836)9月、長子・小伝次が新規大庄屋に任命され、苗字帯刀御免の待遇を受けるがです。

銘碑にある初代・中岡要七は、中岡慎太郎の祖父・5代目要七で最初に北川郷大庄屋となった。

中岡照久は小伝次の次女・京の婿養子になった人で、同族・中岡卓左衛門の子・源平照久で6代目。

この時、中岡慎太郎は12歳。

中岡照行は、義兄・源平照久の長男・代三郎で、明治4年(1871)特旨(天皇のおぼしめし)をもって中岡慎太郎の養子として、7代目として中岡家を相続しちょります。

【参考・引用】 
『中岡慎太郎 新訂陸援隊始末記』 平尾道雄・著 (昭和41年)


現在、北川村にある「中岡家先祖代々之墓」は、昭和59年に高知市内にあった中岡家の墓所の改葬した際に、旧墓石を移転したがじゃそうです。


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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