西郷頼母邸跡 - 函館戦争の時、長子・吉十郎を沢辺琢磨に託す

西郷頼母邸跡

[ 福島県会津若松市追手町 ]


NHK大河「八重の桜」で西田敏行さんが演じちょる会津藩家老・西郷頼母邸跡ながです。

坂本龍馬とは接点はないがですが、龍馬の親族にちっくと関わりがあるがですき、あえて記載しちょります。

西郷頼母と言う人は文政13年(1830)に生まれ、万延元年(1860)家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕え、会津藩の家老を務めちょります。

文久2年(1862)幕府から京都守護職就任を要請された時、政局に巻き込まれる懸念から辞退するよう藩主・松平容保に求めるが容れられず、家老を辞し以後5年間、会津で幽居生活を送った。

戊辰戦争が始まると家老職復帰を許され、白河口総督として白河城を攻略し新政府軍と戦うがですが、伊地知正治率いる薩摩軍の攻撃を受け白河城は失陥し、若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めた。

しかし主戦論者の多い会津藩士たちは徹底抗戦を主張し、意見は折り合わず主戦派から裏切り者とされ西郷頼母は長子・吉十郎のみを伴い城から脱出するがです。

この際の西郷頼母自身は「軽き使者の任を仰せつかり…」、と述べており(栖雲記)、越後口の萱野長修の軍への連絡にかこつけた追放措置とされる。

道中には藩主・松平容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬけるが、刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいう。

残った母、妹2人、妻、5人の娘と親戚12人の計21人は、頼母が登城した後、戦闘で足手惑いになるのを恐れこの屋敷跡で辞世の句を残し自決しちょります。

この時、会津若松に攻め込んだ土佐藩の小隊長が西郷頼母の屋敷内に入ると、婦人達が見事に自刃しちょったけんど、16、7歳の少女が未だ死に切れず悶え苦しんじょったと言う。

足音を聞いた娘は、かすかな声で「敵か味方か」と尋ねたと言う。

その小隊長は安心させる為、わざと「味方だ」と言うと、絶命できず苦しんでいた娘は身をかき探って九曜の紋が付いた懐剣をさし出したそうながです。

そいて、見るに見かねて涙を振って介錯をし、邸を立ち去ったと言う。

この小隊長が土佐勤王党に加盟し、のちに脱藩して坂本龍馬の海援隊で活躍した中島信行であると伝わっちゅうがです。

しかし、土佐の郷土史家・平尾道雄先生は『土佐百年史話』(昭和43年)のP103に、「土佐の中島信行の通称中島作太郎と中島茶太郎と誤って伝えられたのではないかと推測している。」とある。

西郷頼母邸跡

会津若松を脱出した西郷頼母親子は仙台から函館へ向かい、西郷頼母が函館の五稜郭に入城の時、坂本龍馬の従兄弟で函館ギリシャ正教神父じゃった沢辺琢磨に長男・吉十郎を託したと言う。

因みに、長男・吉十郎は明治12年(1879)に病没したため、甥の志田四郎を養子として迎え、彼に柔術を教えたと言う。

この四郎と言う人が、後に講道館に入門し柔道家として大成し、小説や映画で有名な「姿三四郎・のモデルになったとされちょります。

【参考・引用】 西郷頼母 - Wikipedia


藩主も側近たちも、素直に家老・西郷頼母の言葉に少しでも「聞く耳」を持ち合わせておれば、悲惨な戦いは防げのではないかとも思う。

これも、当方の私感ですき・・・。

こうして西郷頼母邸跡の碑も建っちょりますが、もともと講和派だったため主戦派から命を狙われる危険があったため城外に脱出し、裏切り者として会津を追われた人物であるために、正式には未だに復権していないと言う。
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