へんろ石 - 16 中務茂兵衛 「壱百七十四度目」・世良修蔵は従兄弟

へんろ石 - 15

[ 高知県高知市洞ヶ島 ]


場所は、現在四国霊場第30番札所の奥の院と定められちょります安楽寺のすぐ近くにある洞ヶ島公園の一角に建てられちょります。

風雨で削られ、ちょっと見づらいがですが明治33年2月 中務茂兵衛義教さん56歳の時に、174度目為供躾として建てられちょります。


話はちょっと余談ながですが、最近会津戦争に興味があって、この数週間NHK大河『八重の桜』を見よるがですが、第23回 「会津を救え」で、奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵(正確には世羅)が暗殺されるシーンがあった。

急に「そういや、世良修蔵も中務茂兵衛と同じ周防国大島郡椋野村(現・山口県大島郡久賀町椋野)の庄屋・中司家の息子じゃった」と思い出し、ちょっと調べてみたがです。

そいたら、やはり江戸時代半ばまで中務氏といい、その後に改名し中司氏を名乗るようになったようで、本家・次郎右衛門家と分家・八郎右衛門家の2家が交代で庄屋を務めちょったがじゃそうです。

そんで、中務茂兵衛(本名・中司亀吉)は本家・次郎右衛門家に弘化2年(1845)に生まれ、分家・八郎右衛門家に天保6年(1835)に生まれたがが世良修蔵ながです。

因みに世良姓は慶応2年(1866年)に周防国阿月領主・浦氏から「世良姓」を賜り、世良修蔵と名乗っちょります。

ですき、中務茂兵衛と世良修蔵は従兄弟になるがです。

慶応2年(1866)中務茂兵衛が突然故郷・周防国を飛び出して以後の22~78歳までの57年間の長きに渡り遍路に一生を捧げたのは、この10歳年上の世良修蔵の影響があったのではないかという記述もある。

出奔の原因の要素として、鶴村氏は、幕末の勤皇の志士で、後に奇兵隊軍監として活躍した従兄弟の世良修蔵の存在を挙げ、彼に刺激を受けた茂兵衛が、「月性(修蔵の師)に意見され目が覚めて一大発心したとも思われる。」と推論し、村上護氏も世良修蔵の存在に触れて「直接の交渉はなかったようだが、思想と行動において、強烈に影響されるところがあったのではないか」と述べているが、推論の域を出るものではなく、茂兵衛自身が思いを書き残したものでもない。

【参考・引用】
愛媛県生涯学習センター 生涯学習情報提供システム、<えひめの記憶>


中務茂兵衛が周防国を離れたのは、世良修蔵が長州藩・第二奇兵隊の軍監に就任した頃で、幕府による第二次長州征伐が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが大島の奪還を果たした時期ながです。

ですき、この活躍をリアルタイムに知っちょった可能性は充分ある。

維新後、『仙台戊辰史』や小説などで世良修蔵は憎っくき極悪人にされちょりますが、もともとは庄屋の息子で、それが長州藩が組織した「藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊」である奇兵隊に入り、出世し奥羽鎮撫総督府下参謀にまで上り詰めた人じゃき、武士の礼節は弁えておらんかったかも知れんねー。

当初、奥羽鎮撫総督府下参謀役を長州藩側は品川弥二郎としたけんど、人事が変わり白羽の矢が当たったのが世良修蔵ですき、むしろ「火中の栗を拾わされた」可哀想な面もある・・・。

その後は薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては同年3月、会津藩征伐の為に総督・九条道孝以下570名と共に派遣された。
仙台藩・米沢藩らによる会津救済嘆願があったが、あくまで武力討伐せよという強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。
さらに福島城下の金沢屋に宿泊した修蔵が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日(6月9日)に記した密書(「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた福島藩士を通じて入手した仙台藩士は修蔵の暗殺実行を決意(閏4月14日(6月4日)には仙台藩家老・但木土佐らの承認を受けていた)。
閏4月20日(6月10日)未明、仙台藩士・瀬上主膳、姉歯武之進、福島藩士・鈴木六太郎、目明かし・浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された修蔵は、同日、阿武隈川河原で斬首された。
修蔵の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。

【参考・引用】 世良修蔵 - Wikipedia


けんど、もともと薩長、特に長州は「会津」を憎んで「会津だけは許せん」としか考えてなかったような風潮もあり、結果的に「世良修蔵暗殺」は、新政府にゃ「武力討伐よりなし」と言う、いい口実を与えてしまったがです。

手状之趣令披見候、彌御安全珍重奉存候、然ハ松平肥後、酒井左衛門謝罪之節、所置之事令承知候、於會津ハ實ニ以死謝之他無之、松山、高松杯同日之論ニハ無之候、於酒井ハ松山、高松同様之御取計可存候依テ如此候也。
二月十七日   大總督
澤三位 殿
醍醐少將 殿


上は、奥羽鎮撫総督府下参謀役の交代にも関係のある、有栖川宮熾仁親王(大総督宮)が出した有名な「會津死謝」命令ながです。

澤三位殿とは、奥羽鎮撫副総督・澤為量。

醍醐少將殿とは、奥羽鎮撫参謀・醍醐忠敬。

そんで、奥羽鎮撫総督は左大臣・九条道孝じゃった。


また、更に脇道に逸れるけんど、東征大総督じゃった「會津死謝」命令を出した有栖川宮熾仁親王(大総督宮)は、もしかしたら「個人的に徳川幕府に恨みをもっちょった」とも解釈できる人ながよ。

そもそも「東征大総督」には、「戦争の指揮権」・「徳川家および諸藩の処分の裁量権」などの権限があった。

有栖川宮熾仁親王は東征大総督として江戸城無血開城を終えた後も、そのまま「江戸鎮台」及び「会津征討大総督」を兼任しつつ、「東征大総督」職を続けたがです。

そんで肝心な徳川幕府に対する個人的な恨みの話じゃけんど「皇女・和宮」って知っちゅうろー。

徳川幕府第14代将軍・徳川家茂に嫁いだ人じゃねー。

安政5年(1858)に徳川幕府は朝廷の意向を無視して、「日米修好通商条約」を調印する。

これに怒った孝明天皇は譲位を表明し、幕府に攘夷を進めるよう「戊午の密勅」を水戸藩に下したがです。

これを切欠に、時の徳川幕府の大老・井伊直弼は、尊王攘夷を唱える志士や大名・公家への弾圧を始めるがです。

世に言う「安政の大獄」。

吉田松陰も、この時に刑死しちゅう。

安政7年(1860)3月3日、井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺されると言う「桜田門外の変」が起き事態は収束するがです。

そして幕府は、朝幕の関係改善と幕府の権威を復活させようと「公武合体策」を画策し、徳川幕府第14代将軍・徳川家茂の御台所に選んだのが「和宮」じゃったがです。

ところが、この話が持ち上がる前の嘉永4年(1851)既に「和宮」は、孝明天皇の命により「有栖川宮熾仁親王」と婚約しちょったがよ。

しかし、幕府と朝廷の仲直りの為にと「皇女・和宮」は徳川幕府第14代将軍・徳川家茂に嫁入りしたので、「有栖川宮熾仁親王」からすれば婚約までしていた「和宮」を奪われると言う辱めを負う事になるろー。

普通やったら「この野郎!俺の許婚(いいなづけ)を横取りしやがって、絶対に許さん」となるねー。

そんで、徳川幕府に対する「復讐」のチャンスが巡って来たのが、「東征大総督」と言う権力を手にした事ながよ。

前述したように「東征大総督」の権限に「徳川家および諸藩の処分の裁量権」もあるき、憎っくき徳川幕府を抹殺してやろうと、「個人的な恨みが働いた」と考えてもおかしゅうないろー。

もしかしたら岩倉具視が、「和宮」を横取りされて悔しいだろう有栖川宮熾仁親王を「東征大総督」に据えたら、徳川幕府への復讐心が一気に爆発して好都合と意図的に考えたかも知れんが・・・。

と言うのも当初発足した奥羽鎮撫総督府が、岩倉具視に「会津藩と庄内藩の処分」をどうするかと聞いたら、大総督宮(有栖川宮熾仁親王)に聞けと言われて、大総督宮に出した質問状の答えが「會津死謝命令」じゃったがですき。

つまり、「会津藩壊滅」を画策した張本人は岩倉具視で、徳川幕府の権力を取り上げ、朝廷の権力を我が物にしようと始めた「陰謀」の一つじゃと思うちょります。

そんで、大総督宮に付いた有栖川宮熾仁親王は、復讐の為に徳川幕府を徹底的に鎮圧しようと、残った主戦派の「会津を滅ぼせ」と、奥羽鎮撫総督府下参謀役の世良修蔵にも命じたがかも・・・。

因みに、戊辰戦争が終わって有栖川宮熾仁親王が最初の妃として迎えたのが、然もありなん「旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹・徳川貞子」じゃったとは以外や以外じゃけんどねー・・・。


本筋に戻って、この「會津死謝」命令が出て、会津征伐より奥羽鎮撫を優先すべきだという品川弥二郎や黒田清隆は参謀から外され、会津を武力征討したい強硬派の人事変更により、長州側は世良修蔵、薩摩側は大山格之助が参謀に選任されるがです。

その根本として、江戸城無血開城後、徳川慶喜は恭順したにも関わらず、会津藩は軍備を続けたり、新政府軍の東北進行を阻止しようと旧幕脱走軍まで支援しよったがやき、新政府にしたら邪魔な主戦派を徹底的に弾圧するためには「会津藩討滅」は絶対的に必要不可欠じゃったがでしょう。

徳川幕府が壊滅し、新撰組も含めて旧幕府側の主戦派の最後の拠り所は「会津」しかなかったのが、不幸な結果を招く事になるがです。

「会津戦争」に突き進んだ本当の原因は、京都での会津に対する恨みや旧幕府に対する薩長の恨みと、王政復古にに対する会津の恨みがあり、「双方の恨み」が、お互いに引き際を間違えて始まった戦争じゃないろーか・・・。

幕府には山岡鉄太郎(鉄舟)や勝海舟の人材が居ったき江戸城無血開城を成し江戸を戦火から救い徳川慶喜を恭順させたけんど、会津には強硬な主戦派しか居らんかった結果、最後まで武装恭順を貫き通したのが運命の境目じゃったと思うがです。

以上が、「会津戦争」に繋がる、大まかな経緯ながです。


話は、中務茂兵衛に戻って、世良修蔵暗殺されたのは、中務茂兵衛が国を飛び出して約2年後の21歳の時。

その間数度の遍路を重ねてたとしても、21歳の若さで「更に残り55年程の人生を全て遍路に尽くす」と単純に決断出来るろーか?

そこには、何か人生を賭ける「余程大きな訳」がなければ、出来ん事じゃと思うがですが・・・。

彼が57年間と言う遍路に生涯を捧げたのは、従兄弟の「世良修蔵」が暗殺された事のショックや、「世良修蔵」の死を切欠に開戦し多くの血を流し悲劇を生んだ「会津戦争」の事を風の噂か何かで知って、心の奥底に「生涯供養に尽くす」と秘め、ひたすら信心一筋に遍路を続け、生涯二百八十回目の遍路旅に捧げる人生を送ったがじゃなかったろーかとも思うたりしちょります。

あくまでも、私感ですが・・・。



一回の四国八十八箇所巡りの距離約1,460Km。

生涯巡礼に歩いた距離、約407,340Km。(地球を約10周の距離になる)

中務茂兵衛義教の「義教」と言う名は、明治24年(1891)に京都・聖護院から僧として賜った僧名。


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【 2013.06.19 加筆修正 】
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2 Comments

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おりがみ さんへ  

Re: タイトルなし

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「明治維新」言うても、まだ145年前の話で、刀を振り回しよった時代があったがやき。
不思議な気がします。

2013/06/21 (Fri) 21:31 | おりがみ さんへさん">REPLY |   

おりがみ  

私が生まれるほんの百年ほど前に熾烈な国内戦をやってたんですよね。もしもその時代に生きていたら・・あーわたしはたぶん浦賀あたりでのんびりとお百姓さんの奥さんをやってたかな・・・。

2013/06/21 (Fri) 00:10 | EDIT | REPLY |   

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