小畑美稲(孫次郎) - 土佐勤王党に145番目に加盟 

小畑美稲墓

[ 東京都港区南青山・青山霊園 ]


小畑美稲(よしね・うましね)は文政12年、土佐郡一宮村(現・高知市)の郷士・小畑美穗(よしほ)の二男として生まれ、名を孫次郎綽祐、のち美稲と言う。

加盟した時期は定かじゃないけんど、土佐勤王党にゃ145番目に血盟同志となっちょり、土佐勤王党に加担しちょった奥宮慥斎に陽明学を学び、文久2年(1862)上洛して三条家御作配役となり同志と共に国事に奔走しちょります。

京に上洛前に起こった土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件にも別働隊として関与しちょります。

文久3年(1863)1月勅使護衛の任に当たっていた武市半平太の留守中に京都で他藩役を務めちょった平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太は青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資に働きかけて藩政改革を断行しようと動いちょった。

土佐勤王党に対し快く思うちゃーせんかった山内容堂は、他藩士との政事交際を禁じる通達を出しちょったにも関わらず、青蓮院宮への接触を知り「僭越の沙汰である」と激怒するがです。

その怒られた中の一人に、小畑孫次郎もおるがです。

土佐へ帰国した山内容堂は、平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太を入牢し、三人を切腹させるという「青蓮院宮令旨事件」が起こるがです。

そんで、八月十八日の政変が起こると、土佐でもに土佐勤王党への弾圧が始まり、小畑孫次郎は武市半平太や弟の小畑孫三郎、島村衛吉らと山田獄舎に投獄されるが。

慶応元年(1865)小幡孫次郎は弟の小幡孫三郎と共に永牢処分となるがですが、弟の孫三郎は拷問等で病気を患い慶応2(1866)仮出獄するけんど3日後に病死しちょります。

慶応3年(1877)釈放され、戊辰戦争に土佐藩兵として従軍し、明治維新後は新政府に出仕し、明治2年(1869)に弾正大巡察、明治4年(1871)司法大解部を務めちょります。

明治7年(1874)岩倉具視を襲撃した「赤坂喰違事件」では主任判事を務め、、明治10年(1877)西南役後の断獄に関してでも活躍しちょります。

その後、京都裁判所長、名古屋控訴院裁判所長を経て元老院議官、貴族院議員などを歴任しちょります。

明治45年、84歳でみてちょります。

【参考・引用】
『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊
『続 土佐偉人傅』寺石正路・著

関連記事

  



0 Comments

Leave a comment