檜垣清治(直枝) -  土佐勤王党には39番目に加盟

檜垣直枝墓

[ 東京都品川区南品川五丁目・海晏寺 ]


檜垣清治は天保10年(1839)土佐藩士・檜垣清右衛門の子として生まれ、名は正路、後に直枝と名乗っちょります。

坂本龍馬と同じ日根野弁治の日根野道場で剣術を学び、その後、武市瑞山(半平太)にも師事しちょります。

文久元年(1861)4月住吉陣営に在勤しちょった時、望月清平に誘われ坂本龍馬と会うたとい。

その年、武市半平太が土佐勤王党を結党すると39番目に土佐勤王党血盟同志に加盟しちょりますが、この時はまだ住吉陣営に在勤中じゃったき、土佐ではなく大阪での加盟ですろーか・・・。

文久2年(1862)7月に交代で土佐に帰国し、10月に五十人組の一人として江戸に向かう途中、足軽・坂本清平を土佐藩の密偵ではないかとして今橋権助、田内衛吉と共に、11月小田原宿で殺害しちょります。

その後、自首し翌文久3年(1863)1月に土佐に護送され自宅謹慎となるがです。

土佐勤王党の獄が始まると揚がり屋(御目見以下の武士、僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋)入りとなり、一時期、武市瑞山の隣室となり、互いに和歌の交換もしちょるそうです。

元治元年(1864)月以降拷問を受けるが自白せず、明治5年(1872)になって永禁固となり、復権したのは明治6年(1873)の事ながです。

同年、警視庁に奉職し、権少警視に任じられちょります。

明治10年(1877)に西南戦争が起こると佐川官兵衛と共に熊本県で奮戦し、二重峠の戦いでは佐川の抗命に苦慮するが、政府軍の勝利に貢献し、その後は警官練習所所長や沖縄県書記官等を歴任しちょります。

後年、小田原の寺に藩の密偵ではないかと誤って殺害した坂本清平の慰霊碑を建立し、弔祭をおこなったとも言う。

明治27年(1894)56歳で逝去。

【参考・引用】 『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊


檜垣清治と言えば、坂本龍馬との有名なエピソードがあるねー。

ある時、龍馬が「相変わらず長い刀を挿しちゅうねや。これからは短い刀ぜよ。」言うたと。

次ぎに会った時、短い刀を挿しちょった檜垣に対して「刀は古いき。これからの時代はピストルぜよ。」とピストルを見せたと言う。

今度は、やっと拳銃を手に入れた檜垣に「これからは『万国公法』だ」と言ったがじゃと・・・。

ただ、このお話は「短い刀」に関しては有り得る話かもしれんけんど、「ピストル」や『万国公法』となるとお話が成立せんがです。

なぜかって?

檜垣清治は文久3年(1863)1月から明治5年(1872)までは土佐で牢に繋がれちょったがき、この期間には龍馬との直接の接点はないがですき。

このエピソードの出所は大正3年(1914)の『坂本龍馬伝』千頭清臣・著からですけんど、檜垣清治じゃのうて誰か別人と間違えちゅうがじゃないかと思うお話ながですが・・・。
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