岡本健三郎 - 坂本龍馬と福井に赴き、由利公正と会う

岡本健三郎墓

[ 東京都 台東区谷中・谷中霊園 ]


岡本健三郎は天保13年(1842土佐郡一宮(現・高知市)土佐藩士の岡本亀七との子として生まれ、のちに潮江に移る。

土佐藩下横目を務め、坂本龍馬らと交流を持ち国事にも奔走しちょります。

慶応3年(1867)10月、岡本健三郎は坂本龍馬に同行し福井に赴き、由利公正と会うちょります。

・・・夫であなた及私し家来一人〆三人ニて今日出足七ツ時頃よりも出かけ致度、其御心積ニて、先キ触大津の方迄御出し可被遣候よふ御頼申入候。・・・

慶応3年10月24日付の岡本健三郎宛の手紙より


「・・・あなた(岡本健三郎)と私(坂本龍馬)、家来一人の三人で、今日の七ツ時頃(現在の時間で、朝4時頃)より出かますので、そのつもり居てほしいで大津の方までお出下さいますよう、前もってご連絡しておきます。」と言うような意味。

また、慶応3年(1867)11月15日に坂本龍馬と中岡伸太郎が近江屋で暗殺される前、護衛役として岡本健三郎も同席しちょったけんど、峰吉が軍鶏(しゃも)肉を買いに出た時に、岡本健三郎もその場を去っちょります。

その後に刺客が来て暗殺されたというタイミングも、偶然じゃろうかねー・・・。

維新後は、大阪府治水司・太政官権判事・大津県判事等を勤め、明治5年(1872)ころ大蔵大丞、博覧会用務を以てオーストラリアに出張。

明治6年(1873)征韓論に破れ、板垣退助に同調して官を辞す。

明治7年(1874)愛国公党の板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・由利公正・古沢滋・小室信夫・奥宮忠次ら同士8名と連署、民選議院設立の建白書を左院に提出。

明治10年(1877)西南の役に政府転覆「立志社」挙兵計画に参画し、外国商船ローサーより小銃800丁の買い入れを企て、禁固2年に処せられる。

明治14年(1881)自由党の創立に尽力し、のち実業界に転身しちょります。

共同運輸会社(三井財閥などの反三菱財閥勢力が投資しあい、東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社の三社が合併創立された船会社)と三菱会社との確執を調停、その併合を斡旋し、日本郵船会社創立委員・理事。

明治18年(1885) 44歳で亡くなっちょります。

【参考・引用】 『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊


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2 Comments

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Re: タイトルなし

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コメントありがとうございます。

真相は闇の中じゃけんどねー・・・。

2013/05/12 (Sun) 09:50 | 後塵を拝します さんへさん">REPLY |   

後塵を拝します  

初めまして。詳しい記事有難う御座います。ヤッパリ怪しい気がします。岩崎も横目だったそうだし。龍馬にとって岡本健三郎は、由利公正の会談にまで着いて来さざるをえない人だったし、龍馬に対する見張り役だったわけですね。軍鶏が食いたいという話からして、来訪の中岡の前で誰が本当は言い出したやら。谷干城が何処まで本当を言い何処までアナウンスなのか。揉み消し役かも。

藩邸の真ん前で、一瞬を突いて殺陣をやり、銃撃を封じる自信があり、捕まりもしないと安心して襲撃出来る者とは。龍馬の額にクルスがつけられたのは背中の袈裟懸けの後だろう。トドメとして、見せしめとして。傷跡形状を聞いて判る者らには判る処置であったろうか。意味の判る他の志士・公家への処刑アナウンス。整風粛清。
維新後も要人は皆黙って仕舞ったし、勝でさえ言い出せなかった。
16年も経ってから、板垣が負傷させられてから、始めて龍馬を取り上げたのは、政府にいるかっての仲間に対し、かっての龍馬殺人を暴露するぞの気魄匂わしででもあったろうか。

維新後お龍に対する処遇も「同志」として奇怪だし、後藤や岩崎・大江の閨閥化からすればなお奇怪だ。藩を越える大きな意図が動いたか?
・・・と、想像を楽しませてもらいました。有難う御座いました。

2013/05/12 (Sun) 03:09 | EDIT | REPLY |   

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