吉井茂市墓 - 土佐勤王党に19番目に加盟

吉井茂市(之光)墓

[ 高知県 高知市 東久万 ]


吉井之光(ゆきみつ)は天保6年(1835)土佐郡久万村(現・高知市)の多田行則の子として生まれ、名は初め茂市、則行、通称・顕蔵と言い、吉井行淳の養子となっちょります。

安政5年(1858)、江戸に出て幕府の儒官・若山荘吉の門に入り漢籍を学び、土佐勤王党にゃ19番目の血盟同志として加盟血判しちょります。

大政奉還の翌年、慶応4年(1868)正月、江戸で山内家の親戚筋になる旗本・松本嘉兵衛の付き人となり、主人・松本嘉兵衛に勤王を説いて受け入れられ、伊豆で奔走して討幕に尽くしちょります。

鳥羽伏見の戦い後、戦局は東に進み、東征軍が江戸に向かう途中の慶応4年(1868)5月20日の箱根山の戦闘で寝返った小田原藩兵によって負傷し、22日同藩兵士によって殺害されちょります。

享年34歳。

この時、攻めた小田原藩佐幕派の責任者・山田龍兵衛と小泉彦蔵は、東征軍によって斬首刑になるがですが、当時十二歳じゃった吉井之光の長子・行二は親戚付き添いで仇討を願い出るが仇討は許されんかったけんど、斬首刑の斬り手を許され、見事に復讐を果たしちょります。

吉井茂市(之光)墓

墓碑にゃ「明治元年五月二十二日 箱根関所ニ於テ戦死」と刻まれちょります。


因みに、吉井之光の弟・多田哲馬(樋口哲馬)も土佐勤王党員で14番目の血盟同志ながです。

文久2年(1862)の吉田東洋暗殺の時、別働隊の一人でもある。

慶応元年(1865)閏5月11日、武市瑞山(半平太)が切腹後、大石弥太郎らと遺骸を引き取り新町田淵の屋敷に運び、吹井の里へ葬っちょります。

【参考・引用】
『高知県人名事典 新版』 高知新聞社 刊 
『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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