山崎久三郎と妻・富 - 夫婦で勤王に尽くし天誅組には家財を持って応援

山崎久三郎墓

[ 高知県 高知市 筆山 ]


山崎久三郎は文政3年(1820)京都伏見の加賀浪人・米澤佐兵衛の子として生まれ名を兼光と言い、十八歳の時に堺町六角の扇屋・山崎儀助の娘・富を娶(めと)り、養子となっちょります。

男気もあり勤王の志も厚い人で、京都に集まる志士らと交わり、特に長州・土佐の志士らと深い繋がりをもっちょり、勤王の志士の世話をして家は勤王党の梁山泊と言われたと言う。

その中には、吉村虎太郎や那須信吾、伊吹周吉(石田英吉)がおり、天誅組の出陣の際にゃ兵量糧十俵と武器弾薬、その他、陣中用品などいを寄贈し、門出の宴も開き、家財をもって応援しちょります。

しかし、天誅組が敗退し佐幕派が盛り返すと、危険を感じた山崎久三郎は身を隠します。

その後、勤王討幕派が勢いを得、慶応3年10月14日(1867)大政奉還がなると家に戻りますが、慶応4年1月(1868)鳥羽伏見の戦いが始まると、奮起して下男・吉三郎と長州軍に従軍し、戊辰戦争東征で軍功をたてちょります。

明治9年(1876)久三郎は京都で57歳で病死し京都・南願寺にもあるけんど、筆山にある墓は久三郎の方は遺髪墓のようですねー。

話は此処からで、久三郎は京都で亡くなり土佐には足跡を残しちゃーせんけんど、如何いて筆山に墓があるかと言う話と、奥さん・富さんの事を・・・。

久三郎が長州軍に従軍すると、女ながらも長州藩の依頼を受けて軍役夫を百五十人集めたり、手負いや戦死者が後送されて来たり、負傷者が立ち寄って休憩した際にゃ甲斐甲斐しく湯茶などを振舞って労(ねぎら)ったと言う。

そんな風に富さんも勤王の為に尽くし、久三郎が亡くなった時にゃ家財を使い果たし財産もなく、一子・甚三郎と困窮した生活を送っちょったそうです。

そんな親子を助けたのは、新政府や長州ではなく、元・土佐勤王党員で坂本龍馬の海援隊士でもあった石田英吉(伊吹周吉)じゃった。

石田英吉は、かって土佐の志士たちが世話になり恩がある事を感じ、土佐に連れて来、生き残った土佐勤王党の同志らから金を集め、高知市の稲荷新地で「梅花楼」と言う料理屋を開業させちょります。

富さんは女将として切り盛りし、甚三郎と家業に励んだそうで、店は大そう繁盛し「梅花楼」の名を知らぬ者はなかったと言う。

明治37年(1904)の夏、78歳で満てちょり、山崎家は日蓮宗で菩提寺は潮江にある要法寺になっちょります。

この人も最後まで勤王のために尽くし、菩提寺の要法寺境内にゃ明治28年に施主として建てた「大和殉難烈士之碑」があるがです。

大和殉難烈士之碑裏面

大和殉難烈士之碑 - 維新の礎・天誅組壊滅 2010.10.11

これは天誅組三十三回忌の際に建てられちょります。

石田英吉も、吉村寅太郎に心酔し天誅組の大和挙兵にも加わり、敗れて長州に落ち延びちょり天誅組に大いに関係のあった人物で、石田英吉自身も山崎久三郎・富さん夫婦にゃ大変世話になった間柄ながです。

来年平成25年(2013)は、天誅組大和挙兵から150年の節目にもなりますき・・・。

【参考・引用】
『千代の鑑 - 土佐名婦』 高知県女教員会 編 昭和16年 
『土佐の墓』 山本泰三・著




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃(暖かい時期は、その限りじゃないぜよ)、山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)に、充分に御注意の事!
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