彰義隊墓 - 徳川慶喜を擁護するため旧幕臣や有志が結成

彰義隊墓
[ 東京都台東区上野・上野公園 ]


徳川幕府最後の将軍じゃった徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れると江戸へ戻るがですが、慶応4年(1868)明治政府に対し忠誠を誓うために上野寛永寺に蟄居するがです。

しかしこれに不満をもった幕臣や一橋家ゆかりの者、幕臣以外にも有志が集まり、徳川慶喜の復権や徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもったのが、彰義隊になるがです。

そして西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸城無血開城が成り、徳川慶喜は水戸へ蟄居するけんど、彰義隊は上野寛永寺に残るが。

当初は、彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとしたけんど、結局、新政府は東征軍の職務上の権限を西郷隆盛から大村益次郎に代え、彰義隊の討伐にのりだすがです。

そして上野寛永寺周辺で彰義隊と戦闘状態になり、僅か半日程で撃破したそうで、この時の彰義隊の戦死者は記録上105名に上ると言う。

結局、戦闘に破れ敗走した彰義隊の残党の一部は、北陸や会津方面へと逃れ、最後にゃ箱館戦争へ繋がっていくがです。

この墓所は、明治15年(1882)彰義隊の霊を鎮めるために建てられたそうで、墓石にゃ旧幕臣・山岡鉄舟の文字で「戦死之墓」と彫られちょります。

新政府に遠慮して「彰義隊」の文字は刻まれなかったとか・・・。

彰義隊墓

【参考・引用】 彰義隊 - Wikipedia 

関連記事

  



0 Comments

Leave a comment